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カトリック教会の社会教説をやさしく学ぼう |
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ヨハネ・マルシリオ神父(S.D.B.) |
今年一年、ヨハネ・マルシリオ神父様(サレジオ会司祭)が「カトリック教会の社会教説」をやさしくひも解いてくださいます。神父様は50年前に来日され、現在は下井草教会で司牧活動をされながら、日本の教会のために多方面にわたって活躍されています。
一見難しく、なかなか馴染みにくい社会教説。神父様に解説して頂くことによって教会の教えに対する関心が高まり、学びを深める手掛かりとなるのではないかと思います。どうぞ、ご期待ください。 |
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[6] 「労働について」
「労働の能力は人間を他の被造物から区別させるものである。共同体のために働く人間を特徴づけ、人間がパー
ソンであることのしるしである」(ヨハネ・パウロ2世)。旧約聖書にある通りに「主なる神は人を創り、エデンに彼らの住まいをお与えになった。それは人間がエデンを耕し守るためである」(創世記2,15)。キリスト教の労働についての教えはこの聖書的な人間学に基づくものである。聖ヨセフ、イエス・キリスト、聖母マリア、使徒たち、聖パウロなどは皆仕事をしたのです。ですから、イエス・キリストの弟子たちはキリスト教が始まって以来20世紀の歴史の間に、大聖堂、病院、学校、大学、社会に役立つあらゆる施設、銀行、企業、組合などを創設したのです。
聖ベネディクトは西洋での修道会の創始者と呼ばれていますが、自身が創立したベネディクト修道会に「祈り、労働、喜び」と言うモットーを与えました。聖ヨハネ・ボスコはサレジオ修道会のメンバーに「パン、労働、天国」を約束して、次のことばを彼らに残しました。「サレジオ修道会の将来は会員の労働と節制にかかっている」。アントニオ・カヴォリ師はイエスのカリタス修道女会の歴史を振り返り、次のようなことばを書き残しました「カリタス会は労働から始まり、労働がなされなくなった時、それは修道会の終わりの始まりである」。
さて、労働とは何か、またカトリック教会は労働について何を教えているのでしょうか。
「労働とは生命のないもの、あるいは生命のある物質を人間に役立つ品物に変えることであり、その品物が社会にとって売価する資源に変化する能力である」。
「自分と自分の家族のために生活費を稼ぎながら、自分の活動を社会の奉仕に役立てるように働く男女は、当然自分の労働を創造主の働きの延長、兄弟たちの奉仕、歴史に神の計画を実現するために個人的な貢献を与えるのである」(現代世界憲章34)。
「労働は神の創造のみならず、イエス・キリストのあがないのわざへの参加という意味においても、人間存在の根本的な側面をなし、キリストと一致して労働の苦難に耐える人々は、罪の償いにおいて神の独り子と確実に協働するのである」(教会教説263)。
かいつまんで言いますと、労働は神様の働きと神の国への貢献です。さらにイエス・キリストの再創造(あがない)のわざへの参加であり、また労働を通して人々は自分と他人の罪を償うことができるのです。言うまでもなく、労働は人間が行うもので、人間に対する奉仕を目的としなければならない。労働がよいものであるために創造主の計画を実現する助けとならなければならない。労働における利己主義と実用主義(自己実現、自分のみを豊かにする、資本を積んでいく)などは神様が労働に与えられた目的に沿わないのです。
労働の価値は良い心、すなわち「カリタス」愛の心によるのです。私たちはこの世にいる間に労働にもっと身をいれながら、それを使命とする必要があるのではないでしょうか。
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