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カトリック教会の社会教説をやさしく学ぼう |
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ヨハネ・マルシリオ神父(S.D.B.) |
今年一年、ヨハネ・マルシリオ神父様(サレジオ会司祭)が「カトリック教会の社会教説」をやさしくひも解いてくださいます。神父様は50年前に来日され、現在は下井草教会で司牧活動をされながら、日本の教会のために多方面にわたって活躍されています。
一見難しく、なかなか馴染みにくい社会教説。神父様に解説して頂くことによって教会の教えに対する関心が高まり、学びを深める手掛かりとなるのではないかと思います。どうぞ、ご期待ください。 |
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[12] 「平和の促進」
カトリック教会の最近の教えの中で頻繁に「平和」と言う話題が取り上げられます。第2バチカン公会議文書「現代世界憲章」の96条やパウロ6世の回勅「ポプロールム・プログレッシオ」(諸民族の進展)の98条、ヨハネ・パウロ2世の回勅「新しい課題−教会と社会の百年をふりかえって」、「教会の社会教説綱要」の11章などが挙げられますが、それは、教会にとって「平和」が現代人に必要であるばかりでなく、神による人間の真の救いとかかわる大事なことばの一つであるからです。
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平和ということについて、神の心を伝える聖書に頻繁に登場しています。今回は聖書からいくつか引用しながら平和について考えてみたいと思います。聖書によると、平和とは、人間のいのちにとって掛け替えのない物的・霊的な善、宝物です。人間が円満に生きるためには、神、隣人、自分、そして自然界と仲の良い関係を結ぶ必要を感じます。それができる人は平和に生きることができ、義人と言われます。「平和な人には未来がある。」(詩編37,37);「神に逆らう者に平和はない。」(イサヤ48,22);「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29、11);「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。
...その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」(イザヤ9、5−6)。
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イエス・キリストがこの世においでになったのは、「離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げしらせ」るためでした。(エフェソ2、17)。天使たちはこの世におけるイエスの誕生を祝って「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」(ルカ2,14)と歌いました。
生存中のイエスは人を癒し、人に「安心して、平和に生きるように!」(ルカ7、50参照)と何度も口にされました。御父のもとに戻る前に使徒たちに次のことばを残されました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14,27)。使徒たちを派遣する際には、「人の家に入るときには、『この家に平和があるように』と言いなさい」と教えました。イエス・キリストの「山上の説教」にも平和についての話があります。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5、9)。生涯の終わりにはエルサレムの滅亡を予言して涙を流されます。「エルザレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…』」(ルカ19、42)。復活の夕方、イエスは使徒たちに自分を現しながら、口にされた最初のことばは「シャローム!」(あなたに平和がありますように!の意)(ヨハネ20,19・21・26)でした。
★ イエス・キリストが伝え与える平和とは、人のあらゆる困難からの解放、罪からの救い、存在するあらゆるものとの和解を意味します。
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平和は秩序、正義、真理、愛の実りであります。平和に生きるために人は次のことを求めます。つまり、衣食住、教育、労働、休み、自由、平等、尊敬、愛、秩序のある社会生活、この世における命に正しい方向づけを与える宗教などです。
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人間は罪人であり、その心には欲望が完全に消えることは決してありませんが、平和を保つことは可能であります。ただ人間の絶えざる努力、また平和の泉であるイエス・キリストにそれを願う必要があります。
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