聖マリアの誕生の祝日
- 2016/09/08 06:08
- カテゴリー:今日の福音
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今日、3月19日は聖ヨゼフを記念します。神の救いのわざの実現に深くかかわる聖人として“祭日”として大きな祝いを致します。
私たちの修道会も会の保護者としてまた奉献生活の模範として聖ヨゼフに特別に祈り、祝います。
今日のミサの時のマタイの福音では「夫ヨセフは正しい人であったので」と言われます。
聖ヨゼフが“正しい人”と言われるのはまず聖マリアの「配偶者としてすばらしい性格を持っている」からです。
「ヨセフは主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ」ました。
聖マリアが聖霊によってイエスを宿したように
夫としての聖ヨゼフの愛もまた、聖霊によって
新たにされたといえます。
聖霊によって人の心に注がれる神の愛は
すべての人間的な愛をもっと完全なものに作り上げられます。
神は夫婦の愛も独特な仕方でそうされます。
人間的にみてふさわしいもの、美しいもの、
ひたすらな自己奉献のしるしとなるもの、
人間同士の契約、三位一体の神の愛を模範とするまことの共同体。
聖ヨセフは聖霊ご自身の中に夫としての夫婦の愛の泉を見出した
「正しい人」なのです。 「救い主の保護者聖ヨゼフ参照」
聖ヨセフは労働者の保護者、従順の模範としてその徳に倣うように勧められますが私たちの修道会で神の摂理に対する信頼の模範として伝統的に祈られています。
修道会の貧しい時代、会の施設の子供たちやお年寄りに食べ物がなくて困ったとき、いつも聖ヨゼフに祈って助けられてきました。
ルカによる福音9章28b~36節
今日は主の変容を記念する。ミサの説教はとても感動的だった。
弟子たちを前に神々しく光り輝き、神としての姿を垣間見せるキリストが
今日の福音の中で描かれている。
そんな中、「これは、私の愛する子。彼に聴け。」という御父の声が響く。
イエスは父である神からお墨付きをいただいたのだ。今から受難に向かう
イエスにとって、どんなに力強い言葉であっただろう。
ヨハネに洗礼を受けた時にも、天から御父の声が響いたことを思い出す。
これから育った家を離れ、メシアとしての活動にはいるイエスが、
「これは私の愛する子。わたしの心にかなう者」という父からのお墨付きを
いただく。まだ何も始めていないイエスに、神は無条件に太鼓判を
押された。
生まれたての赤ちゃんを「よし、よし、可愛い子だね」とあやす母親に
似ているかもしれない。何もできない赤ちゃんは、この世に生まれたこと
事態が喜ばれ、無条件の愛と賛辞を注がれる。そのようにして、この世の
荒波に出ていく下地ができていく。ありのままの自分を受け入れられて、
ありのままの自分を受け入れる自信に繋がっていく。
神は私たちにも「何もできなくてもいいんだよ。あなた自身を愛している
んだから」と言って下さる。だから、あまり心配しずぎることなく、御父が
言われたように、イエスの言葉に耳を傾けることを大切にしながら、
進んでいこう。
マタイによる福音15章21~28節
今日の福音を読むと、イエスはなんと冷たく、そっけないんだろうと思いたくなるかもしれない。娘の病気を癒してくださいと必死に頼む婦人に対して、すぐに応えようとしないイエスがいる。今でこそ、キリスト教は普遍的な宗教で、すべての人に開かれているが、当時のユダヤ社会にあってはイスラエルの民こそ選民であり、異邦人に対しては閉鎖的な態度が取られるのが常識であったことを思えば、このイエスの態度も人々の目には特に奇異に映ることはなかったと思う。しかしながら、最終的には、何度も頼み込むその婦人に対して、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」といって娘の病気を癒された。
いろいろな説がある。イエスは彼女の信仰を試すために奇跡を引き延ばしたとも言われる。果たしてそうであろうか。私たちの粘り強い説得は神の考えも動かすこともあるのではないか。私たちの心からの祈りは神を感動させることがないであろうか。カナの婚宴で水をぶどう酒にかえた時もそうだった。神は全能の神だから、初めから計画されたことを断固押し通す神であろうか。そうではないと思う。神のみ旨は、対話と関わりを通して実現されていく。もちろん思うような結果が得られないこともあるだろう。神はすべての人を救いたいので、私たちにとって一番良いと思うことを、引き出していかれるのだと思う。
ルカによる福音5章1-11節
今日の福音から人がイエスの弟子になっていくプロセスが浮かび上がってくる。
イエスの弟子になっていくというのは、ふさわしい時があるようである。
それは落ち込みの時、闇の中にあるとき。一晩中漁をしても、何も取れなかった
翌朝のシモンの心境もそうである。少し肩を落とし、何もかからなかった網を
洗っていた漁師たちの姿をイエスはしっかりと見ておられた。
今がその時だとでもいうかのように彼らに声をかけられた。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
イエスの弟子になる次のプロセスは、その呼びかけに従ってみることが必要と
される。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」
その通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったとある。
暗く沈んでいただけに、その無償の恵みがどれほどありがたく、畏れ多かった
ことか。
ここで、次のプロセスがある。内的変化、自分の罪の自覚に伴う回心である。
「私から離れてください。私は罪深いものなのです」
思わず口をついて出た言葉だった。
そんなシモンにイエスはとどめの言葉をかけられたと思う。
「私についてきなさい」と。
闇の体験、呼びかけ、従順する姿勢、無償の恵みの体験、回心という段階を
経てイエスの弟子になっていく。それからの3年間が弟子たちの本格的な
学びだったと思う。
神の子となるためには、“まず勉強”という風潮がある。
しかしながら、まずは受け入れられた、恵みを受けた、ゆるされたという
体験があって、それから学びに入っていく。
これが今求められている福音宣教なのかもしれない。
今日の福音は、世間の常識を超える神の愛が描かれる。
99匹を野原に置いて迷い出た1匹を探しに行く羊飼いの
憐れみもそうであるが、今日描かれるブドウ園の主人の
言動にも驚かされる。
仕事がなく途方に暮れる人に自分のブドウ畑での仕事と
報酬を約束した。そして、一番最後に声をかけた労働者から
順に賃金を払う。しかも皆同じように。型破りな主人である。
朝早くから働いた人が、たった1時間しか働かなかった人と
同じ賃金であることに不平を漏らすのも無理はないかもしれない。
それを聞いた主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。
あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を
受け取って帰りなさい。私はこの最後のものにも、あなたと同じ
ように支払ってやりたいのだ。」…
人間の心をはるかに超えた天の父の親心とはこのようなものか。
「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる。」
これはとても意味深い言葉である。つまり、神がはじめに
ご自分の民として選ばれたイスラエルの民は、律法を完全に守る
ことによって救われると信じた。しかし、今まで救われないと
みなされていた異邦人が、自分の素晴らしい行いによってではなく、
十字架にかけられて死に復活されたイエス・キリストへの信仰に
よって救われることを知るようになる。
私はこの御父の心をどう生きているか。不平を言う労働者の側に
いるのだろうか。問われているような気がする。
エゼキエルの預言9章1~7、18~22節
マタイによる福音18章15~20節
旧約時代、神は神殿にのみ住まわれると考えられていたことがあった。
その神が、ご自分に背いてありと「あらゆる忌まわしいこと」を行う民に
罰を警告し、神殿を去るという預言をされた。
「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった」とある。
神は場所に縛られない方であり、時間と空間を超えた方であることを民は
少しずつ学んでいく。
キリストは今日の福音の中で次のように言っている。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、
私もその中にいるのである。」
神は建物に縛られる方ではなく、私たちが「心を一つにして」
祈るとき、そこにおられる。
しかも自分だけが救われることよりも、人とのかかわりの中で
ともに救われることを望まれる神である。
私たちが互いを思いやりながら共に生活することを願われる神なのだ。
だからこそ、問題が起きた時には何とかして和解にこぎつけるよう
教えてくださる。そのステップ1がこれだ。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで
忠告しなさい。」
普通何か悪いことをされたら、たいていの場合気を悪くし、
そのことで騒いだり、人に告げに行くのではないだろうか。
神はそれを望まない。愛と忍耐を持って行動できるよう祈っていきたい。
ヨハネによる福音21章15節―19節
今日の福音でイエスは三度ペトロに尋ねる。
「私を愛しているか?」と。
愛されることを望まれる神の姿である。
「私は全能の神だから一人で十分。愛されなくても大丈夫」
とは決して言われない。人間の愛を必要とされる神なのだ。
イエスが死を予告された時、「あなたのためなら命を捨てます」
とまで言い切ったのに、3度もイエスを否んでしまったペトロは
自己の弱さに打ち砕かれ、自信なく答える。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、
あなたがご存知です」と。
イエスの愛とゆるしにゆだねきった答えだった。
そして今日、私にも同じように問いかける。
「私を愛しているか?」。
たびたび弱さに陥り、神を生活の端っこに置き去って
しまうような私の愛をも望んでくださることに感謝しながら
神をますます深く愛する恵みを願いたいと思う。
第1朗読:使徒言行録15章1-6節
福音朗読:ヨハネによる福音15章1-8節
今日の福音で神とイエス、そして私たちの関係が
農夫、ぶどうの木、その枝であると描かれている。
「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、
自分では実を結ぶことができないように」、私たちが
イエスにしっかりと結ばれていなければ、まさに、
全ての出来ごとは空しいものとなってしまう。
それなのに、人はとかく自分で何とかしようとする。
そして自分の成功に満足して神に感謝したりする。
頑張らなければ救われない、あるいは自分が頑張ることが
神のみ旨にかなうといつの間にか思いこむこともある。
しかし、いつもこの言葉に戻らなければならないと思う。
「わたしを離れては何もできない」・・・
わたしが持っているものは全て神様が備えてくださったもの。
健康も、時間も、才能も、仕事も、友人も、家族も、成功も…。
旧約時代の考え方は、救われるためには、いかに掟を守り
沢山のいけにえを捧げ、素晴らしい行いをするかにかかっていた。
「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは
救われない!」と言われていた。
自分が無であることを悟り、絶えず神の助けを祈り求め、
そして神に栄光を返しながら生きていくところに、本当の
幸せがあると思う。