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カテゴリー「今日の福音」の検索結果は以下のとおりです。

幼子殉教者

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第1朗録 使徒ヨハネの手紙1章5節~2章2節
福音朗読 マタイによる福音2章13-18節

主の降誕の喜びの祝いのわずか3日後に、
こんな悲惨な出来事の記念日を祝うとは…。
イエスの誕生を不快・脅威に思ったヘロデ王は、
ベトレヘム周辺の2歳以下の男の子たちを殺害してしまう。
何という残酷な話だろう。
この幼子たちは、キリストのために命を落とした
最初の殉教者たちとして記念される。

しかし、よく考えて見ると、私たちの中にもこういった罪の種、
心の闇の部分を持っている。
時に人の成功が気に入らないとか、喜べなかったり、
眩しく見える真理の光を遠ざけ、
闇の中を歩くことに甘んじる人間の弱さをもっている。

でも神は、それを断罪なさらない。
むしろ、そのことを認めることの大切さを強調する。

「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、
真理は私たちのうちにありません。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」と。

自分の弱さ、罪深さを恥じるのはよいが、
そこに留まり続けるなら、イエスとの関係は築けなくなる。
なぜなら、彼は罪人を救うために来られた救い主なのだから!

御子イエスは神からのプレゼント

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第1朗読 サムエル記下7章1-5、8-12,14-16節
第2朗読 ルカによる福音1章67-79節

今日はクリスマスイブ。
幼子イエスの誕生を祝うミサが夜半に行われる。
クリスマスにはだれもがプレゼントを用意する。
大切な人のために、何がいいかを思いめぐらし、
店に足を運び、時間をかけてより良いものを探し、
懐を痛めるのを喜びとする。
相手のうれしい笑顔を思い描きながら、
ある人は一週間前、もしかしたら一カ月も前から
準備に取りかかるかもしれない。

イエス・キリストの誕生は、神から私達への最高のプレゼントだ。
それも相当スケールの大きな準備をもってなされた。
何しろ預言者の口を通して何世紀も前から伝えられてきたのだ。
およそ九世紀という年月、神は人類へのプレゼントをするために
準備の時を持たれた。
それほどに私たちは神に想われ、神に愛されているのだ。
なんという忍耐。なんという入念さ。なんと有難いこと…!

パンを増やす奇跡

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今日の福音の箇所は、イエスの憐れみ深い人間性と
希望をもたらす神性がにじみ出ている。
癒しを求めて集まってきた大勢の病める人たちに対して
イエスは言われた。

「群衆がかわいそうだ。
もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。
空腹のままで解散させたくはない。
途中で疲れ切ってしまうかもしれない。」

人間的な必要に同情される神…。
ここであの有名なパンと魚を増やす奇跡を行わうのだが
イエスのなさり方は、神の偉大さを一方的に示すものではなく、
人間側の貧しく小さくとも誠実な貢献を待っている。
「パンはいくつあるのか?」と弟子たちに問う。
全能の神の子なのだから、別にいくつかのパンがなくても
奇跡を行なえたに違いない。

人々はパンを食べて満腹し、体も心も満たされた。
私たちが真の喜び、深い喜びを手に入れるためには、
貧しさと空虚さを体験する必要があるのかもしれない。
イエスと共にいるために、3日間も食べ物がない状態を
甘んじた大勢の群衆のように。

簡単に手に言えることのできる幸せ、快楽、満足感は
心の奥深くまで満たす喜びを与えることはないと思う。

何をしてほしいのか

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ルカによる福音18章35-43節

今日の福音はいろいろな音や動きであふれている。
群衆がイエスを見ようと移動する様子。
その中で土埃にまみれて物乞いをしている男。
目が見えなくても、これはただ事ではないと気づいた男は
「これはいったい何事ですか?」と尋ねる。
「ナザレのイエスのお通りだ」
すると、男は声の限り叫びはじめる。
今までのお金を乞い求める声とは明らかに違う声で。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでくださーい」
その人を叱りつける人々の声。それでも叫び続ける男。

そういったざわめきの中からイエスは男の叫びをキャッチした。
通常とは違い、ご自分がその人のもとに行くのではなく、
その人をそばに連れてくるように命じたほどだから、
相当遠くからの叫び声だったに違いない。

「何をしてほしいのか」これがイエスの第一声だった。
全知全能の神の子なら、この人が何を望んでいるのかわかるはずだ。
しかし、イエスは相手の要望に耳を傾けようとする。
相手を中心に動き、相手の意思を尊重する。

人はよく、自分よがりに人助けをしてしまう。
自分がいいと思ったことを押し付けてしまって失敗することもある。
支援することの必要性が問われる昨今だが、
相手が望む支援をしてこそ、本当の支援である。
「何をしてほしいのか?」・・・
このイエスの問いかける姿に倣っていきたい。

取るに足りないしもべ

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第1朗読 知恵の書2章3-9節
福音朗読 ルカによる福音17章7-10節

「自分に命じられたことをみな果たしたら、
『私どもは取るに足りないしもべです。
しなければならないことをしただけです。』
と言いなさい。」という今日のイエスの教えがある。

私たちはとかく自分の努力、功績が報われないと
イライラしたり、不満が募って周りを責めたくなる。
そんなことで神様にいただいた大切な一生を
無駄に過ごしたくはないものだ。

考えてみれば、私たちの命は頂いたもので、
いろいろなものを与えられて成長してきた。
すべては与えられたものとして、感謝の気持ちで過ごし
穏やかな心で少しずつお返ししていけたらと思う。

でもやっぱり人間だから、評価を求めるし、
望んだ評価を得られないと、怒ったり落ち込んだりする。
もし、イエス様が言うように
「私は取るに足りないしもべです。
しなければならないことをしただけです。」と言えたら
不満で悶々とすることもないだろう。

見えない努力、影の犠牲こそ、縁の下の力持ちを神は喜ばれる。
「むしろあなたの名が天に書き記されたことを喜びなさい」と。

孤独な者の友

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ルカによる福音 4章16‐30節

「自分の故郷では歓迎されないものだ」
イエスもそんな気持ちになったのかと思う。

仕事場では歓迎され、評価されていても、
家族の中では居場所を失ってしまうことがある。
家族からの誤解や無理解に苦しんでいる人も多いだろう。
家族だからこそ自分の成功をともに喜んで欲しいのに…。

そんな時、イエスのことを考えてみるといいかもしれない。
「カファルナウムでいろいろな奇跡をおこなったように、
郷里のここでもしてくれ」と、妬みの心を抱く人々からの
圧力がかかり、イエスは町の外へ追い出され、
崖から突き落とされそうになった。

イエスさえも郷里の人たちからそんな仕打ちを受けた。
それを考えると、どんな苦しみやみじめさも、
イエスの思いを追体験することのできる喜びに変わる。

イエスと金持ちの青年

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マタイによる福音 19章16-22節

今日の福音は、一人の青年がイエスに、
永遠の命を得るためには何をしたらいいのかを尋ねる箇所だ。
この青年は小さい時からユダヤ社会の掟を忠実に守り、
どうやら自分の生き方に自信があったようだ。

「そういうことはみな守ってきました。
 まだ何か欠けているでしょうか?」

欠けているどころか持ち過ぎているのだ!などと
思慮深いイエスはおっしゃらなかったが、
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、
貧しい人々に施しなさい。
そうすれば、天に富を積むことになる。
それからわたしに従いなさい。」と言われた。

充分に満たされた生活をしていると、
確かにキリストが入る余地が少ない。
すがるものがありすぎるのだ。
むしろ欠乏している時、キリストが心の富となりうる。
しかしながら、持っていることが何も悪いのではなく、
囚われない心で生きることを神は望んでおられるのだと思う。

パウロは言っている。
「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」
そう思うと気が楽だ。わたしたちは、人生の終焉に向かう途上で、
少しずつキリストにお返ししていく。
体力も、精神力も、能力も、視覚も、聴覚も…。
神は与え、神は取られる。神の名に賛美。

5つのパンと2匹の魚

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第一朗読 民数記11章4-15節
福音朗読 マタイによる福音14章13-21節

人は、不足する事態が起こると嘆くものだ。
イスラエルの民もそうだった。
苦しいエジプト生活から脱出させてもらったにも
かかわらず、砂漠でのひもじさに耐えられず
泣きごとを言い始めた。
「誰が肉を食べさせてくれないものか。
エジプトでは魚をただで食べていたし、
きゅうりやメロン、葱や玉葱やニンニクが忘れられない…。」
民の指導者であるモーセは苦しむ。
「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。…
この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。…
私一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。」
神に託された使命の重さを嘆くモーセ。
まるで、今日の福音の中の弟子たちのようだ。
人里離れた場所まで着いてきた大勢の群衆を憐れに思い、
「何か食べさせなさい」とイエスに言われた弟子たちは、
「ここには、五つの魚と二匹の魚しかありません」と半ば
責任を逃れるかのように答える。

イエスはこの不足の事態に対してどう対処したのだろうか。
モーセのように嘆くことはせず、むしろ感謝したのだ。
五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰いで賛美の祈りを唱えた。
すると、それらは群衆に配ってもなお、12のかごに余るほどに
増えるという奇跡が起きた。これはどういうことなのか…。

物が足りない、お金が足りない、人がいない、はかどらない、
うまくいかない、具合が悪い…。日常よくあることだ。
そんな時、このイエスの姿に見倣おう。
文句を言ったり、機嫌を悪くしたり、あまりに心配し過ぎたり、
嘆いたり、落ち込んだりする前に、思い切って感謝してみてはどうか。
「主よ、この与えられたものを感謝します!
あとはあなたが補ってくださることを信じます」
その欠けた部分を、神が恵みで覆ってくださるに違いない。

「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」

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第1朗読 出エジプト記 3章1-6,9-12節
福音朗読 マタイによる福音 11章25-27節

今日の第1朗読は、モーセが神に召命を受けるところである。
数日前、エジプトに売られたヨセフ物語が終了したが、
このヨセフにしても、モーセにしても、民の救いのために
死んで復活されたイエスの前兆とも言われている。

野獣に殺されたと思われていたヨセフは、エジプトに売られて王となり
後に自分を裏切った兄弟たちを含むイスラエルの民を飢饉から救った。
ナイル川に流された赤ん坊モーセは、ファラオの娘に拾われ、
後にイスラエルの民をエジプトでの奴隷のくびきから解放する。
イエスがご自分の死を通して、人々を永遠の救いへと導いたように。

今日の第1朗読の話に戻るが、神は燃え尽きることのない炎の中から
モーセに声をかけ、ご自分の名前を明かす。
「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
当時、(今もそうだが)人々は、海の神、山の神、水の神、風の神と
いうふうに、自然を支配する神を拝んできた。
しかしモーセに現れた神は、ご自分が契約を結んできた生きた
人間の神であることを伝えた。人との関係にこそ、関心をもつ神なのだ。
とりわけ、圧迫され、疎外された小さな民に心を痛められる神だ。
「イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた…」

今日の福音の中で、イエスはこう祈られた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵のあるものや賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました!」

弱く小さな者にこそ目を留められる神の子どもらしく、
生きていくことができますように…。

最後まで耐え忍ぶ者は

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マタイによる福音10章6‐23節

イエスは、後に降りかかる迫害に向けて
ご自分の弟子たちの心を準備させる。
「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
「引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。」
12人を前にして具体的に諭すイエスの親心を感じる。
イエスが王となって世を治めてくれると思っていた弟子たちにとっては
聞きたくない話ではあっただろう。
「私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」
どんな思いでこの言葉を聞いただろう。

わたしたちも日々の生活の中で、目に見えない血を流すことはある。
肉体的な苦しみもそうだが、精神的な苦しみはもっとつらい。
特に、いつ終わるのか、なぜ苦しまなければならないのかわからない、
苦しみを分かち合える人がいない、そんな状況はもっとつらい。

イエスは言う。「最後まで耐えしのぶ者は救われる。」
どうせ苦しむのであれば、ただ耐え忍ぶのはもったいない。
誰かのために耐え忍ぼう。
自分よりも、もっともっと過酷な状況に置かれている人の為に。
余命を宣告された若いお母さん、
虐待されている無防備な子ども、
震災で愛する人を亡くし、立ち上がれないでいる人、
お金がなく、飢え死に寸前の独居老人…。
誰かのために捧げられた苦しみは、大きな価値があると信じる。

この世で飢え、渇き、迫害、裏切り、ののしり、鞭打ち、
最後には十字架上で死に渡されたイエス。
すべて耐え忍ばれたのは、人類を愛するがゆえだった。

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