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家庭の意味
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第1回 「家庭の意味」のはじめに
大分教区司祭 山下敦 |
2014/4/1 連載開始 |
現在、カトリック教会内(だけではないかもしれませんが)で、“家庭崩壊の時代”という言葉を耳にします。その意味は字義どおり、家庭が壊れてしまった、ということなのかもしれませんが、そもそも“家庭”ってどういうものなのでしょう?“家庭崩壊の時代”だからこそ、“家庭”という言葉が私たち一人一人に与えるイメージやその概念、あり方には大きな個人差があるように思われます。実際、俗に言う幸せな家庭に育った人とそうでない家庭に育った人にとって、“家庭”という言葉自体が与えるイメージには大きな違いがあります。
ここでは、カトリック教会が位置付ける家庭とその在り方について書きます。当然ですが、すべてのカトリック信者の家庭がその通りに生きているわけでもありませんし、そのように生きていない家庭を排斥する意向などみじんもありませんが、家庭本来の在り方、家庭とはこうあるべきだ、という見方は私たちにとって一つの軸になるように思います。
家庭はまず、一人の男性と女性が出会い、お互いの自由意思に基づいて、自身の体も含めた人格のすべてを
愛する相手に与えるという、“結婚”にその端を発します。つまり、お互いに愛し合う一人の男性と女性がいて初めて家庭がスタートすることになります。しかし人間にはなぜ男と女だけが存在するのでしょうか?その理由は人間にはわかりません。聖書の最初の書物、“創世記”という本は人間の起源について書いていますが、そこにこんな言葉があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」聖書が伝えることの中で非常に偉大で重要な真理がここにあります。人は神様の似姿として造られているのです。人がその他の生物、動物と決定的に違うのはここに理由があります。神様に特別に愛され、そしてその似姿として造られているからです。教会は動物を卑下しているわけではありませんが、私たちにとって人間と動物との違いを知ることはとても重要なことのように思われます。人間も確かに動物です。本能があり、生理的な欲求を持っています。でも人間と動物には決定的な違いがあります。聖書的に言うならば、それは人間が“神の似姿として造られている”ということになりますが、私たちが理性的に理解できる部分でいうと、例えば、人間には動物とははるかにレベルが違う自由が与えられています。それは神が、自身の似姿である人間に与えた大きな賜物です。動物にもある程度の自由がありますが、どんな行為をするか、という点だけを考えてみても人間が持っている選択肢の数は動物のそれとは比較になりません。人間はその与えられた自由を使っていろんなことができます、具体的に言えば、いいことも、また、わるいことも。しかし一番重要なのは、人間は自由を使って愛することができる、ということでしょう。確かに、動物も愛することができます。飼い主を愛する犬はその典型かもしれません。しかし人間の愛はもっと深いものです。自分を犠牲にして人のために尽くす、自分を与えるという人間の愛の行為は、それをしない可能性や理由もたくさんある中でなされるからこそ、美しく感じられるのだと思います。
人とは何であるのか、どういう存在なのか。人類がとずっと問い続けてきたこの問いは、家庭の在り方を理解するうえでとても大事なことです。そして聖書はそれを「人は神の似姿である」という言葉で説明しているのです。
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