[4] 「人に注意を払うこと」
教皇ベネディクト16世は2012年に入ってから、ご自身の話の中でしばしば社会問題に触れておられます。元旦のメッセージでは若者に正義と平和を教える必要を、そして四旬節のメッセージでは現在、人々は「人間にもっと注意を払う」必要があると諭しておられます。さて、この最後の点に関する教皇の考えを紹介させていただきたいと思います。
「愛の生活とは互いに注意を払うことにあります」(ヘブライ人への手紙10,24)
・ 注意を払うことの意味:気を配る・人に気付く・物事を注意深く見るということです。
「鳥を考えて見なさい・・・神は鳥を養ってくださるのではないか」(ルカ12,24)
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かな
いのか」(ルカ6,41)
「イエスのことを考えなさい」(ヘブライ人への手紙3,1)
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聖書はこのことばで神のわざ、イエスの教え、人間の必要に注意を払うこと教えています。創世記4章の9節にも、神は人間に「兄弟の番人であること」を諭されます。しかし残念なことに、現代の社会で目立つのはプライバシーという名目での、人に対する無関心です。パウロ6世のことばを借りて言えば「世界の病とは資源の不足ではなく、僅かな人の手に富があることではなく、兄弟愛の欠如であります。」(「諸国の発展」66)。
・ 人間が神の造られたものであり、神の子であると認めるならば、人間に対する正義、憐みの態度は当たり前のことです。
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さて、「人に注意を払う」とは、人にあらゆる側面、身体的・道徳的・霊的な善を望むことを意味します。善とは兄弟のいのちを促進し、保護することです。そのために、人の必要に目を開く必要があります。イエスは人間の盲目と心の頑なさを指摘するために、二つの有名なたとえをのべました:「よきサマリア人」(ルカ10,
30−32)、「ラザロと金持ち」(ルカ16,
19)。たとえには「人に注意を払うこと」とは反対の態度が見られます。それは富への執着、満ち足りていること、自己の利益を優先する態度です。
★ 「人に注意を払う」「気を配る」ことには、その霊的な善の配慮が含まれます。「キリスト者の戒め合い」とは人の永遠のいのちを目的とするものです。
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現代の社会では人の身体的な善に対する敏感さは見られますが人の永遠の救いに対する関心が見られません。しかし福音書でイエスは(マタイ18,15)、「兄弟が罪を犯すなら、彼・彼女を戒めなさい」と命じておられます。さらに、教会の伝統によれば「罪人を戒める」ことは、愛徳のわざと見なされます。やはり、真理、正義、自由に反することの前には無関心であってはならないし、黙ってはいけません。
・ 間違っている人を戒めることは、使徒職であり、人に奉仕することです。なぜなら、人の生活をよりよい方に方向づけ、主の道を歩ませるからです。
★ 人を戒める前に、間違った人のためにお祈りをすることが肝心です。これができるならば、自分もその人を本当に愛しているのだと分かります。
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