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教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第19回 聖体拝領
東京教区司祭 田中昇
2020/11/1 更新


 これまであなたは、ミサを婚宴だと考えたことがありましたか。ミサのことを考えるとき、私たちには「典礼」、「交わり(一致)」、「真の現存」あるいは「いけにえ」ということばがすぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、結婚はどうでしょうか。ともかくも、教会の教父たちから十字架の聖ヨハネの神秘詩に至るまで、そしてさらには教皇ヨハネ・パウロ二世の神学的著作に至るまで、カトリック教会は、典礼の頂点である聖体拝領を私たちの神聖なる花婿イエスとの聖体祭儀における親密な一致だと慣習的にしばしば説明してきました。


 私たちが聖体拝領の前に、司祭が簡潔に言うことばを考慮するとき、私たちはミサがいかなる意味で婚宴であるのかを理解することができます。


Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccata mundi.
Beati qui ad cenam Agni vocati sunt.
見よ、神の小羊を。見よ、世の罪を取り除く方を
小羊の晩餐に招かれた人々は幸いである。[ⅰ]


 この表現はヨハネの黙示の最後の方に位置する場面から、いうなれば聖書全体の最終極面から取られています(黙19:9)。このことばの十全的な真意を理解するためには、一度、ヨハネの黙示のこの部分を含むより広範な脈略の中で、それがどのように見えて来るのかを考察する必要があります。



ハレルヤ

 ヨハネの黙示の19章1-6節には、主に新しい歌を歌っている天使たちや長老たちと共に天の大群衆が出てきます。彼らは神を賛美しながら四回、「ハレルヤ」と声を挙げています。これは大変意義深いことです。なぜなら、この典礼的に重要な語である「ハレルヤ」(「主(Yahweh)を賛美せよ」という意味)は、旧約聖書では数多く見出されても、新約聖書全体ではわずか四回しか使われていないからです。しかも、その四つの事例は、全てヨハネの黙示19章のまさにこの六節の中で矢継ぎ早に次々と現れるのです


 ヨハネの黙示19:1-6 の「ハレルヤ」という突然の合唱から、旧約聖書の有名な「ハレル詩編」(詩113-118)が思い出されるかもしれません。 これらの詩編のグループは「ハレル集」と呼ばれますが、それは、そのうちのいくつかの詩が「ハレルヤ」で始まるか終るかしていて、贖罪の業のゆえに神をほめたたえているからです。興味深いことに、このハレル詩編は、ユダヤ人たちが過越の食事の中で歌うことになっていた歌でした。ユダヤ人たちは、出エジプト記の中でエジプト人たちからイスラエルを救い出し、再びご自分の民を贖うであろう主(Yahweh)を賛美しながらこの「ハレルヤ」を歌いました。それどころか、イエスが最後の過越の食事、すなわち最後の晩餐の最中に歌ったと思われる歌がまさにこの「ハレルヤ」なのです。そしてまさにその時に、彼は聖体の秘跡を制定したのです(マタ26:30; マコ14:26を参照)。


小羊の婚宴

 こうした背景を重要な手掛かりとして、ヨハネの黙示19章の6節目に出て来る4つの「ハレルヤ」のうちの最後のハレルヤを理解することができるかもしれません。小羊の晩餐の間、ずっと大群衆の声が神を賛美しながら共鳴しているとき、この四番目の「ハレルヤ」が天上の礼拝の転換点になります。


ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。
わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。
小羊の婚宴の日が来て、花嫁は用意を整えた。(黙19:6-7)


 それから、天使はヨハネにこう書き記すように命じています。「小羊の婚宴[ⅱ]に招かれている者たちは幸いだ」(黙19:9)と

 この小羊の祝宴とは一体何でしょうか。実はそれこそが主の食卓、つまり聖体祭儀なのです。まず第一に、「晩餐」「小羊」という言葉から、ユダヤ人たちが小羊をいけにえとしてささげ、それを主要料理としてよく食べていた「過越の晩餐」が思い出されます。さらにまた、私たちは、「ハレル詩編」のような黙示録19章の1節から6節の「ハレルヤ」が合唱される中で行われる小羊の晩餐を読み知るとき、過越がほのめかされていることがより明白になります。こうして、この究極の子羊の晩餐は、明らかに一種の過越の食事であり、ヨハネの黙示の典礼的な枠組みを考慮すると、それは聖体祭儀という新たな過越であると理解されるでしょう。


 しかし、この箇所(黙19:1-6)は、私たちにさらに劇的な何事かを語ってくれています。ヨハネの黙示19章6-9節において、小羊は花婿であるということが明らかにされているのです!つまり、この過越の晩餐が婚宴だということです。花婿である小羊はイエスであり、また花嫁は私たち自身が表す教会なのです。そしてイエスはその教会と婚姻を結ぶためにやって来たのです。まさにこれこそが婚宴であって、この婚宴の中で、小羊はご自分の花嫁と結ばれ、キリストとその教会の結合という究極の完遂婚が象徴されているのです(黙21-22; エフェ5:21-33を参照)。私たちは、とこしえに神なる花婿と結ばれたいと望む婚姻の交わりをこの地上における聖体祭儀の典礼において前もって味わうのです。私たちがこの典礼によって共にすることになるのが、イエスと教会のこの天上的な婚姻なのです。それゆえ、司祭が「小羊の婚宴に招かれた者は幸い」と言うとき、彼は、ヨハネの黙示に出て来る天使たちの小羊の婚宴への招きをそのまま反復して私たちにも語っているのです(黙19:9)。


 あなたがこのことばをミサにおいて耳にするとき、あなたは自分がその婚宴に招かれていることに気づいているでしょうか?あなたは、イエスとその教会の婚宴を共にするように招かれているのです。そしてとりわけ、あなたは決して平凡な招待客などではないのです。あなたこそ花嫁なのです。あなたは、教会のメンバーとして、聖体拝領のために通路を歩くとき、あなたの花婿イエスと結ばれる拝領へと向かっているのです。


 実際に、聖体拝領は婚姻という次元で理解されます。夫と妻は、できる限り最も親密な仕方で身体を結び合わせ、夫婦行為の中でお互いに自らを与え合います。同様に、私たちの神なる花婿は、この地上でできる限り最も親密な方法で、ご自分を私たちに結び合わせるためにやって来られ、まさにご自分の体と血を聖体祭儀の中で私たちにお与えになります。このようなわけで、教会が聖体拝領後に感謝の祈りをささげてきた習慣は非常に重要です。私たちは主とともに憩いたいと思うものですが、それは人生の多くの時点で、しかしなかんずく聖体拝領後のしばらくの間、主が私たちの心の内におられるときに、彼に語りかけて感謝したいと思うはずです。良き夫であれば、妻との親密な交わりの後に、すぐメールを確認したり、あるいは芝を刈りにすぐに駆けて出て行ったりすることはしないはずです。また、花婿が私たちの中に親密にとどまっておられる限り、しきりに駐車場から車を出すことを考えたり、友人に何かの話をしようと思ったり、コーヒーとドーナツを買うことを考えたりするはずはありません。この時間は、私たちが最愛なる方と憩うために取るべき時間であって、愛情をもって関心と感謝をその方に寄せる時間であり、私たちの愛を表現するための時間なのです。


 この観点から、ミサはまさしく婚宴なのです。花婿と一つであることを切望する花嫁のように、私たちの心は神なる花婿との聖なる交わりを切に求める思いで満たされているに違いありません。そして、聖体となって下さったまさにその花婿の体は、できる限り最も親密な方法で、秘跡的に私たちの内に入って来て、私たちの体と一つになるのです。



主よ、わたしはふさわしい者ではありません

 しかし、単なる人間にすぎない私たち、おまけに罪深い者である私たちが、いかにして完全に聖であり全能なる神にこのようにあえて近づくことができるのでしょうか。聖体祭儀という婚宴への招きに答えて、私たちは、一方で自分には主を拝領する資格など全くないと認め、それと同時に、イエスが私たちを召し出して癒してくださるに違いないという信頼を表現する祈りを唱えます。


Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum,
sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea.
主よ、私はあなたをわたしの屋根の下にお迎えするのにふさわしい者ではありません。
しかし、ただおことばを下さい。そうすれば私の魂は癒されるでしょう。


 この表現は、中風で苦しみながら家に寝込んでいる自分の僕をイエスに癒して下さるように頼んだローマの百人隊長の謙遜と信頼を表しています。この百人隊長は、神との契約の部外者であった異邦人であり、神の民を虐げていた百人の兵士を束ねるローマの士官であったので、謙遜にも自分の家にイエスを招く資格などないと認めているのです。さらに百人隊長の告白は、諸福音書に見られる他の多くの人々の信仰を凌駕する偉大な信仰を言い表すもので、それがイエスをも驚かせているのです。彼は、イエスがただことばを語るだけで、どんなに遠くからでも病を癒すことができると信じています。「ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます」(マタ 8:8)と。イエスは、この男をその信仰ゆえに称えるのです。


 百人隊長のように、私たちは、イエスにわが心の「屋根」の下に来ていただく資格などないことをよく知っています。それでも百人隊長が、イエスは自分の僕を癒すことができると信じたように、私たちもイエスによって癒されるはずだと確信します。聖体において、イエスは最も親密な私たちの心の客人になって下さるのですから。


マリアの初聖体

 聖体を拝領する神聖な時間の考察を締めくくるにあたり、かつて聖母マリアにとって初聖体にはどのような意義があったのかを思い巡らした教皇ヨハネ・パウロ二世に目を転じてみましょう。


 まず、教皇ヨハネ・パウロ二世は、自らの胎にイエスを身ごもるマリアと聖体を拝領する人物との間にある深い関係性に特別な関心を寄せています。ある意味で、聖体を拝領する度ごとに、私たちはマリアのようになるのです。「マリアはその聖体への信仰を、聖体が制定される前から示していました。マリアはご自分のおとめの胎を、神のみことばの受肉のためにささげたからです。」[ⅲ] 9ヶ月の間、マリアはイエスの体と血を胎内に宿していました。私たちは、ミサで主の秘跡的な御体と御血を拝領します。「お告げを受けたとき、マリアは神の子を、真の意味での肉体において、すなわち体と血において身ごもりました。こうしてマリアの中で、ある意味であらゆる信者において秘跡の形で行われることが、それを先取りする形で始まりました。信者はパンとぶどう酒のしるしのもとに、主の御体と御血を拝領するからです。」[ⅳ]


 続いて、教皇ヨハネ・パウロ二世は、マリアが初めて聖体のことを耳にしたとき、どのように感じたのであろうかと思い巡らせました。彼女は最後の晩餐に同席しておらず、たぶん使徒たちからそこで何が起こったのか聞き知ったことでしょう。


ペトロ、ヨハネ、ヤコブやその他の弟子たちの口から、最後の晩餐で語られたことばを聞いたとき、マリアはそれをどのように感じたでしょうか。「これは、あなたたちのために与えられるわたしの体である」(ルカ22:19)。わたしたちのためにいけにえとして引き渡され、秘跡のしるしのもとに現存するこの主の体は、マリアが胎内に身ごもった体と同じものなのです。[ⅴ]


 それから、教皇ヨハネ・パウロ二世は、祝福されたおとめが聖体拝領から受け止めたと思われる特異な意味を美しく解釈しました。「マリアにとって、聖体を受けることは、いわば自分の胎内にもう一度、主の心を迎え入れることだったのだろうと思います。その心は、かつてマリアの心に合わせて脈打っていたものでした・・・」。[ⅵ]


 これは何と含蓄に富んだ洞察でしょうか。このように、わが子と再会するために身支度しているマリアを想像してみて下さい。聖体拝領の度ごとに、マリアがイエスに傾けたその愛情ある眼差しを想像してみて下さい。彼女にとって、わが子を再び自分の内に宿らせることは、言葉に言い表せない喜びであったに違いありません。マリアが、聖体を拝領する私たちの模範であるように、マリアがわが子を迎えたように、私たちも、聖体拝領の度ごとに、熱烈にイエスを迎えることができるように祈りましょう。マリアの心がイエスと完全に調和して高鳴るように、聖体によって、私たちの心がイエスとさらに一層調和しながら高鳴りますように。


 聖体を拝領させた後、司祭は杯を清めながら「拝領後の祈り」をささげます。その祈りの中で、司祭は聖体が私たちの生活の中で霊的に実りをもたらすように祈ります。[ⅶ]



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1 [訳者注]英語訳のミサ式文では、ラテン語規範版のecceがbeholdと訳されているため、ここでは「見よ」と訳しました。この部分の英語改訳は、“Behold the Lamb of God, behold him who takes away the sins of the world. Blessed are those called to the supper of the Lamb.”[back→]
2 [訳者注]原文でmarriage supperを婚宴と訳し、supperを晩餐と訳しています。そのため、ここでは共通するsupper晩餐という用語が話題になっています。[back→]
3 『教会にいのちを与える聖体』55項。[back→]
4 同55項。[back→]
5 同56項[back→]
6 同56項[back→]
7 [訳者注]拝領後の司祭の祈り:Quod ore sumpsimus, Domine, pura mente capiamus, et de munere temporali fiat nobis remedium sempiternum. (主よ、私たちが口で受けたものを、私たちが純粋な心でこの身に保つことができますように。今このときの恵みが、私たちにとって永遠の薬〔救いの糧〕となりますように。)[back→]