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ミサについて

 

教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第17回  交わりの儀
東京教区司祭 田中昇
2020/9/1 更新


 

 いよいよ私たちは最後の準備の時を迎えました。既に聖体制定の叙述が語られパンとぶどう酒は聖別されました。私たちの主は、今や真に私たちの前に現存しておられるのです。わずか数分の後、私たちはイエスの御体と御血を聖体拝領において受け取ることになります。次にここで扱うミサの部分は、主の祈り、平和のあいさつ、平和の賛歌(Agnus Dei)と他の準備的儀式を含む、会衆を聖体拝領という神聖なる瞬間へと導くものです。また一連の儀式を通して、会衆は確実にキリストの御体と御血を相応しくいただけるように促されます。


主の祈り

 主の祈りは、福音書の中でイエスによって教えられ(マタ6:9-13; ルカ11:1-4)、幾世紀にもわたってミサの中で使われてきました。私たちの中のある人にとって、この祈りは、子供の頃から習った型にはまった祈りで、また日曜日ごとに単純に繰り返す祈りなのかもしれません。しかしそうであっても、当たり前のように唱えてよいものと考えるべきではありません。私たちが主の祈りに取り組む前に、私たちがこうして神に語りかけられるのは何という特権をいただいていることか、司祭は次のように注意を促します。


Praceptis salutaribus moniti, et divina institutione formati, audemus dicere…

救いの忠告を心に留め、神の教えにしたがって、あえて言いましょう・・・


 たぶん、「主の祈り」の最も顕著な側面は、いかに私たちに神を「父」と呼ばせているかということです。確かに、古代のユダヤ人たちは神をイスラエルの民の父と見なしていました。しかし、個人的なレベルでは、神を「父」と呼ぶことは全く一般的なことではありませんでした。それにもかかわらず、このことこそがまさにイエスが私たちにそうするように呼びかけていることなのです。福音書の中で、イエスは自分の弟子たちにこの祈りを教えました(マタ6:9-13; ルカ11:1-4)。しかも、もしイエスが彼の母語であるアラマイ語を話していたならば、たぶん、父という言葉には「アッバ」“Abba”という用語を宛てていたと考えられます。これは、「おとうちゃん・パパ」に似た親しみのある愛情のこもった言い方です(マコ14:36; ロマ8:15; ガラ4:4-6 を参照)。これは、イエスの救いの業のおかげで、私たちが神との間に結んだ親密な関係を強調するものです。私たちがキリストに一致していることによって、神はまことに私たちの父となりました。私たちは、「唯一の子の内にある子ら」となったのです。罪深い被造物である私たちが神と結ぶこの関係の深遠さは、この祈りの冒頭の一行に表現されています。「天におられる」唯一の方、すなわち全能なる永遠の神が、まさに私たちの父なのです。


 この祈りにある「私たちの」と言う表現もまた意味深長です。それは、私たちに共通の天の父のおかげで、私たちが共有する深い一致を指し示しています。キリストに結ばれている全ての者は、彼においてまことに兄弟姉妹なのです。キリストのゆえに、イエスの父は私たちの父となったのであり、私たちは皆、神との契約による家族関係において父の子らなのです。


 主の祈りは伝統的に七つの祈願に区分されてきましたが、その最初の三つ(み名、み国、みこころ)は神に焦点が当てられ、最後の四つ(与えて下さい、ゆるして下さい、導いて下さい[ⅰ] 、救って下さい)は私たちの必要に焦点が当てられています。

み名が聖とされますように:

 聖書において、神の名は神ご自身と関係付けられています(創32:28-29; 出3:14-15; イザ52:6)。この祈願は、神の名が崇められますように、つまり神とその名が聖なるものとして認識され扱われるようにと祈っています。


み国が来ますように:

 預言者たちは、神がいかにイスラエルのために王国を建て直して下さるのか、また神ご自身がいかにあらゆる民を治めて下さるのかを前もって語りました(イザ40:9-11; 52:7-10; ゼカ14:9, 16-17)。この祈願は、神の統治が私たち自身とともに始まって世界中の全ての民の心の中で受け入れられるようにと祈っています。


みこころが天に行われるとおり地にも行われますように:

 この祈願は、最初の二つの祈願に関連しています。天において、神のご意志は完全に遵従されます。神の名は崇められ、神の統治は全ての天使や聖人に喜んで受け入れられます。そこで私たちは、天におけるように地においても、全ての者が神を礼拝し、神のご意志に従うようにと祈るのです。


私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい:

 先に見たように、聖書でパンは最も基本的な食料の一つであって、生命を維持するために不可欠なものであると見なされていました。人々はパンのことを述べるとき、単に食料あるいは糧を思い浮かべたのではありません。それは一般的に、生命を維持するものの象徴でもありました。この祈願で「日ごとの糧」と言われているのは、私たちが日ごとに必要としているもののことなのです。とりわけ、糧とは、荒れ野でイスラエルを支えるために与えられた「マナ」を彷彿とさせます(出16:16-22)。神は、かつて人々が必要とした分だけの天のパンを各人にきっちりと与えたように、今日も私たちの必要に応じて毎日それを与えて続けて下さいます。究極的には、「日ごとの糧」を求める祈りは、聖体拝領でいただこうとしている「命のパン」を指し示していますから、この祈願には、聖体をほのめかすニュアンスも含まれています。


私たちの罪をおゆるし下さい、私たちも人をゆるします:

 聖体を拝領する前に、私たちは神に罪の赦しを願います。つまり、間もなく私たちの中に住まわれるイエスのためにそれぞれが聖櫃となるために、私たちを清めて下さるように願うのです。しかし、私たちが自らを傷つけた人々を赦さない限り、神のあわれみが私たちの心の奥に届くことはあり得ません。[ⅱ] イエスは、 私たちが他者に示したあわれみの大きさに従って、神が私たちをあわれんで下さると教えました(マタ6:14-15; 18:23-35を参照)。さらに山上の説教の中で、イエスは、神を礼拝するために祭壇に近づく前に、兄弟が自分に罪を犯したのであれば、まずその兄弟と和解すべきだと言いました(マタ5:23-24参照)。同様に、聖体拝領をしようと祭壇に近づく前に、私たちは、自分たちに罪を犯した人々を赦し、兄弟たちと和解することをあえて求められるのです。


私たちを誘惑に陥らせず:

 この祈願は、人生の中で生じるあらゆる試練や誘惑を取り除いて下さいと願う祈りというほどのものではありません。この聖書的表現は、誘惑に身を明け渡すという意味で、神が誘惑に陥ることを私たちにお許しにならないようにとの願いを表現しています。これは私たちが、直面する誘惑に打ち勝つように、神が私たちを強めて下さいますようにという祈りです。教皇ベネディクト16世は、私たちがまるでこの祈願の中で神に向かって次のように言っているかのようだと教えました。「私が浄化された者となるためには、試練が必要であることを私は知っています。もしあなたがこの試練を私の上に臨ませるのであれば、どうぞ私の力が限られたものであることを思い出してください。私にあまりに多くのものを任せないでください。私に与えられる誘惑の限界をあまりに広く引かないでください。もしそれが私にとって多すぎるようでしたら、そばにいて、あなたの手で私を守ってください。」[ⅲ] それは聖パウロが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試錬に遭わせることはなさらず、試錬と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリ10:13)と言ったのと同じようにです。


悪からお救い下さい:

 この祈願を聖書的な観点から理解する時、これが一般的な害あるいは不幸からの救いを求めて祈っているのではないということが分かります。ここでの「悪」という表現は、聖書において、「悪魔」であると説明され得ます。このことは、悪とは抽象的な何ものかではないことを私たちに想起させてくれます。それは世界で起こる行き当たりばったりの悪いことではありません。この祈願において、悪とは、ある人格者、つまり神のみ心に背き、他者を自らに与(くみ)させて神に反逆するように導く堕天使であるサタンのことです。[ⅳ]それゆえ、この結びの祈願において、私たちは、御父がサタンから、またその偽りや仕業、罠から私たちを救って下さるようにと願うのです。


主の祈りの副文――新しい種類の平和

 ここで私たちは、主の祈りの最後の祈願「悪よりお救い下さい」をさらに詳しく説明する祈り[ⅴ]に至ります。司祭は、「主よ、私たちは祈ります。あらゆる悪から私たちを解放し、私たちの時代の日々にふさわしい平和をお与え下さい・・・」と言います。ここで思い描かれている「平和」とは、単に世界に戦争や対立が無い状態のことよりもさらに別の次元のことを指しています。平和(shalom)の聖書的理解は、何よりもまず、大いに人格的で霊的な何ものかです。それは、神との契約への忠実さから流れ出る神からの賜物、すなわち傷一つない内的な完全性あるいは内的な幸福を意味します。個々人がその人生を主に委ね、神のご計画に従うとき、自らの内に深い内的平和を見い出し、そしてこの内的平和が、秩序正しい、調和のとれた他者との関係を通して世界に流れ出すのです。


 これこそ、ミサの中で私たちの祈り求める「平和」であり、そのことがこれに続く祈願において明確にされていきます。司祭は、人間の状況を苦しめる二つのもの、すなわち私たちの平和を損なわせる罪と苦悩(困難)から私たちを解放してくれるように主に願います。神のおきては、私たちが幸福に至る道であり、それを破れば私たちの内に平和は失われてしまうのです。もし私たちが我欲、高慢、嫉妬、色欲あるいは貪欲に身を任せてしまうと、私たちは決して幸福ではなくなります。私たちは確信なく、落ち着きなく、さらなる支配力や他者からの注目、富あるいは快楽を探し求める一方で、すでに所有しているものを喪失するのではないかと絶えず心配しているのです。


 キリスト信者たちは、生活の中で、心から神の平和をかき消してしまうような恐れを経験することがあります。私たちは、職場や小教区の状況、あるいは家族の状況に心を悩ますことがあるかもしれません。将来を憂慮したり、あるいは苦難を恐れたりすることもあるかもしれません。重大な決断を下したことに不安を感じたり、経済状況や自分に対する他人の評価を心配したりするかもしれません。もちろん、キリスト信者は人としての自らの責任に気を配るべきです。しかし、心配事が私たちの心を支配し、その平和を失わせてしまうとき、それは何かが霊的に間違っているというしるしなのです。そういうとき私たちは、心底、神に信頼を寄せてはいないのです。


 ミサのこの時点で、司祭は、イエスが自ら与えようと思っている奥深い平和を私たちに味わわせないようにしているこうしたあらゆる心配事から私たちを解放して下さるようにと主に祈るのです。そして私たちが、この世の試練を経験しながらも、主が全てを正されるその訪れの時を確信をもって期待しながらこの祈りを唱えているのだということを司祭は指し示します。この希望を、感謝の祭儀は、使徒パウロのテトスへの手紙のことばを借り受けて次のように表現します。「祝福に満ちた希望、私たちの救い主イエス・キリストの到来を待ち望みながら。」(テト 2:13と比較してください)


国と力と栄光は・・・

 再び天上の天使たちのように、会衆は神を賛美しながら司祭の祈りに答えます。

Quia tuum est regnum, et potestas, et gloria in sacula.

国と力と栄光は、限りなくあなたのもの


 この祈りは、往々にしてプロテスタントの主の祈りの結びとして知られています。それは、イエスが私たちに実際に教えた祈りの一部(マタ6:9-13; ルカ11:1-4参照)ではありません(しかもカトリックの典礼で唱えられる主の祈りに付属する祈りには含まれていません)。しかしこの祈りは聖書にその原形を持っていて、ミサのまさにこの瞬間が収まりの付く相応しい場所なのです。基本的な次元において、この祈りは天上の礼拝(黙5:12; 19:1)に見られる同様の賛美の声を反映しています。しかも、ここで私たちがその祈りのことばをもって祈るとき、私たちは最初期のキリスト信者たちが参加するミサに共に与っているのです。というのも、この祈りのことばは、使徒たちの時代の後の最初の世代のキリスト信者たちが祝った聖体祭儀において用いられていた感謝の祈りから採られたものだからです。[ⅵ]


 その上、そのことば自体は、さらに一千年も遡る旧約聖書の時代のものなのです。それはダビデ王が、その治世の終わりに神にささげた究極の賛美の祈りに由来し、息子ソロモンにその王座を譲る前に、王としてのダビデ最後の諸作を代表するもののひとつです。


  「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にある全てのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたは全てのものの上に頭として高く立っておられる。」 (代上29:10-11)


 ダビデは、全ての王たちの中で最も名高い王でした。彼は権勢をほしいままにし、また栄光に満ちた君主であって、彼の王国は、イスラエルの歴史の中で幾度か訪れた絶頂期のうちのひとつのをイスラエルにもたらしました。さらに、自らの治世の終わりに、ダビデは、自分が王であったときに手にした繁栄は、全て神からいただいたものであると謙虚にも悟るのです。彼が手中に収めた力も光輝も王国も何ひとつ彼自身のものではなく、全ては神のものでした。ダビデは言います、「主よ、偉大さ、力、光輝はあなたのもの・・・国もあなたのもの」であると。


 ミサの度に、私たちはダビデ王のこのことばを繰り返しているのです。そうすることで、神を自分たちの命の主であると認め、私たちに授けてくれるあらゆる祝福のゆえに私たちは神を賛美するのです。私たちのどのような善行も、体験する成功も、究極的には神からの賜物です。つまり、「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの」なのです。


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1 [監訳者注]日本語では「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていますが、ラテン語(英語もほぼ同義ですが)では「わたしたちを誘惑に導かないで下さい」と正確には訳されます。それゆえ日本語の主の祈りには出てこない「導く」という動詞がここで話題になっています。[back→]
2 CCE 2840.[back→]
3 ヨゼフ・ラッツィンガー、『ナザレのイエス』(里野泰昭訳、2008年、春秋社)、215ページ。[back→]
4 CCE 2851-2854.[back→]
5 これは主の祈りの「副文」と呼ばれています。[back→]
6 『十二使徒の教訓 ディダケー』(110年頃の成立?)の10項を参照。[back→]