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教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第6回 回心の祈り「私は告白します・・・」
東京教区司祭 田中昇
2020/3/16 更新


 

 集会祈願に至るまでのミサの入祭の部分は、いわばみことばと聖体において現存されるキリストとの出会いのための準備行為と言えます。 旧約聖書の至るところで、いつも全く思いがけなく、神はご自分の民にその神なる存在を示しておられます。人々の反応においては神聖さに対する恐怖と畏怖が伴い、ときには地にひれ伏したり、自分たちの顔を覆い隠したりさえもしています。それは、自分たちが、神のみ前に立つにはふさわしくないことを彼らが自覚しているからです(創17:2; 28:17; 出3:6; 19:16)。変容の時に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはイエスの栄光が突如として現わされたのを目の当たりにして、それと同じ反応を示しています(マタ17:6)。また聖ヨハネは、ただ一人、天からの幻を見ている時、思いがけなく栄光のうちにあるキリストを目にして同様の反応を示しています(黙1:17)。

 しかしながら、民は神が自分たちの間に来られることを予め知らされたときに、この神との出会いのために、時間をかけて注意深く準備しました。例えば、イスラエル人は、三日かけてシナイ山で主との出会いを準備しました。その時、主は雷鳴や稲妻や密雲の中にあって彼らに臨まれ、契約のことば、すなわち十戒を直接彼らに語ったのですが、彼らは準備として主のために自分たちを聖別し、自分たちの衣服を洗うように指示されました(出19:9-19)。

 私たちもまた、ミサに与るたびごとに、主との聖なる出会いをするために自らを備えるよう招かれています。そのうえ、私たちの神との出会いは、古代イスラエルの誰かが神と出会ったことよりも想像をはるかに超えた深遠なものなのです。神聖なる典礼において、私たちは雲の形で現れた神の臨在に近づくのではなく、聖体の秘跡において私たちの主イエス・キリストのまさに御体と御血に近づき、さらに聖体拝領において自らの内に神なる主を秘跡的に受け入れることになるからです。

 私たちは、この全ての出来事に参加するには本当に相応しくありません。実際に、私たちの罪深さは、私たちがミサの中でまさにしようとしていることと対照的に際立っています。だからこそ司祭は、公に全能の神と会衆の前でへりくだって私たちの罪を告白させ、「神聖なる神秘を祝うために自らをふさわしく整えるように」と私たちを招くのです。イスラエルの民がシナイ山で主に近づく前に彼らの衣服を洗う必要があったのと同じように、私たちもミサの中で神に近づく前に罪から魂を清める必要があります。実に、洗うということは、罪を取り除くことを表す聖書的なイメージなのです。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。・・・わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」(詩51:4, 9)。

私は告白します
Confiteor[i] として知られる祈りは、自らの罪の告白に関係した長い歴史を持つ聖書的伝統に由来しています。この祈りは、公の悔悛の儀式の中で度々行われました(ネヘ9:2)。時代が変わって、それは個々人の自発的な(信仰上の)応答となっていきました(詩32:5; 38:19)。自らの罪を告白することは、聖書の知恵文学の諸書において勧められましたし(箴28:13; シラ4:26)、また旧約聖書の律法は、ある種の罪を告白するよう民に要求さえしました(レビ5:5、民5:7)。旧約聖書のある人物は、国家的悔悛の行為として、イスラエル全体の罪を告白しています(ダニ9:20; ネヘ1:6)。

 自らの罪を告白するという実践は、新約聖書においても継続されました。その実践は、洗礼者ヨハネに従って、悔い改めの洗礼においてまず自らの罪を告白する群衆とともに始まります(マタ3:6; マコ1:5)。新約聖書は、他の箇所でも、キリストの弟子たちが同じような実践をするように強く勧めています。私たちは、主が罪をゆるして下さるという確信を持って、自らの罪を告白しなければならないと教えられています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1ヨハ1:9)と。ヤコブもまた、私たちが罪から自由の身となるために互いに祈り合うように求めながら、互いに罪を告白するように強く勧めています。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(ヤコ5:16)と。

 罪の告白は、古代イスラエルと新約聖書の時代では一つの慣習でしたので、初期キリスト信者が聖体祭儀に与る前に自らの罪を告白していたことは何ら驚くべきことではありません。このことは、聖体祭儀に関して私たちが持っている最初期の聖書外記録の一つに見られます。それは2世紀初めに書かれた『ディダケー』 と呼ばれたキリスト教原典です。それには、「主の日毎に集って、あなたがたの供え物が清くあるよう、先ずあなたがたの罪過を告白した上で、パンを割き、感謝(の祭儀)をささげなさい。」 とあります。ディダケーに記されているこの初期キリスト教の実践は、それ自体、「ふさわしくないままで」聖体を受けることがないように、そうする前に「自分をよく確かめるべきだ」(1コリ11:27, 28)という聖パウロの熱心な勧告を反映しているのかもしれません。

良心の糾明
 回心の祈りConfiteorにおいて、私たちは、単に「全能の神」に対してのみならず、「兄弟姉妹のみなさん」に対しても自らの罪を告白します。この共同体的な要素は第二バチカン公会議後に再び用いられるようになった表現です。したがってこの祈りは、「互いに罪を告白し合うように」(ヤコ5:16)というヤコブの勧めに従うものであり、それはまた罪がもたらす社会的効果をも浮き彫りにしているのです。私たちの罪は、私たちと神との関係、そして私たちのお互いの関係に影響を与えるものなのです。

 また回心の祈りConfiteorは、私たちが罪に陥ってしまった可能性のある4つの領域について真剣によく考えるようにも迫ります。すなわち、「思い、ことば、おこない(したこと)、怠り(すべきことをしなかったこと)」です。これら4つの点は、良心を糾明するうえで極めて有用です。

 第一に、「思いにおいて」ですが、聖パウロは、私たちの思いに心を配り、善なることに絶えず思いを集中させるように勧めています。「全て真実なこと、全て気高いこと、全て正しいこと、全て清いこと、全て愛すべきこと、全て名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリ4:8)と。山上の説教の中で、イエスは、思いにおいて私たちがどのように罪に陥ることがあり得るのかということに関して、いくつかの警告を与えています。例えば、これまでに誰かを肉体的に傷つけることはなかったとしても、他者に対する怒りによって罪を犯すことがあり得るということです(マタ5:22)。これまで誰かに肉体的に触れなかったとしても、情欲を抱くことによって心の中でも姦淫を犯し得るということです(マタ5:27-28)。人を裁くこと(マタ7:1)、明日の心配をすること、あるいは深く思い悩むこと(深い絶望感)さえも、私たちを罪に導き得るある種の可能性となります(マタ6:25-34)。

 第二に、私たちの「ことばにおいて」です。ヤコブの手紙は、舌が火であると警告しています。口から出ることばは、祝福することもあれば、呪うことも出来るでしょうし、ことばが悪のために使われるのならば、それは大きな騒動を引き起こします。「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」(ヤコ3:5)のです。聖書は、私たちのことばが害を及ぼし得る多くの事例に触れています。例えば、陰口、うわさ話(2コリ12:20; 1テモ5:13; ロマ1:29)、そしり、悪口(ロマ1:30; 1テモ3:11)、侮辱(マタ5:22)、偽り(コロ3:9; 知1:11; シラ7:12-13)そして、驕り高ぶり(詩5:5; 75:4; 1コリ5:6; ヤコ4:16)です。私たちは、もちろん、これらのことばによって犯す罪をも回心の祈りConfiteorの中で告白しなければならないのです。

 第三に、「おこないにおいて」です。この領域には、大部分の人が共通して思い描く罪、つまり直接的に他者を傷つけたり、あるいは私たちの神との関係を傷つけたりする行為が含まれます。このような場合、「十戒」がしばしば良心の糾明の基準として用いられます。

 第四に、「怠り(すべきことをしなかったこと)において」ですが、これは、私たちが最も取り組むべき部分です。つまり私たちは、利己的な行為、高慢な行為、そして悪辣な行為の当事者であるのみならず、最後の審判のとき、怠りによって行うべき善を行わなかったことに対する責任をも負うことになります。ヤコブの手紙が教えているように、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ヤコ4:17)。

 回心の祈り(Confiteor)のこの部分から、私たちは、キリスト者の道が、ただ単に罪深い思い、ことば、欲望、(悪い)行いを避けるという否定的な道(via negativa)ではないことを思い起こします。ルカ福音書のファリサイ派の人と徴税人の譬え(ルカ18:9-14)は典型的な例かもしれません。ファリサイ派の人は言います。「神様、私は他の人達のように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のようなものでもないことを感謝します。私は週に二度断食し・・・・・・。」この態度は自分こそが正しいとうぬぼれて他人を見下す典型な愚かな人間の例だと福音書は示しています。キリスト信者の生き方とは、究極的には、imitatio Christiつまりキリストに倣うことであるのです。私たちは、キリストとキリストの諸徳を身に着けなければなりません。聖パウロは、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そしてとりわけ愛を身に着けるようにコロサイの教会の人々に勧めています(コロ3:12-15)。イエスは、私たちに単に罪を避けることだけを望んでおられるのではなく、彼が示した自己犠牲的な愛において私たちが積極的に成長して欲しいと思っているのです。私たちが真のイエスの愛の背丈に成長するためには、これで十分だなどということは決してあり得ないのです。その意味で、私たちが真のキリスト者であれば、いつもどこか不完全な自分を顧み、主の憐みを願い求めると言う謙遜な態度になるのは当然のことと言えるのです。

 このようなわけで、福音書に出てくるファリサイ派の人間や金持ちの若者の罪は非常に悲劇的なものと言えます。彼らはユダヤ教の掟を全て守ってきた非常に象徴的なユダヤ人でした。特に金持ちの若者の高潔な生き方は実にかなりの偉業と言えるものです。しかしながら、彼はキリストの呼びかけに進んで応えようとはしませんでした。若者は、自分の持ち物を売り払って貧しい人々に与え、イエスについていくことはできなかったのです。そしてこのことこそが、彼の失敗の原因でした。彼は、回心の祈りConfiteorに基づく良心の糾明の最初の3段階では「A」評価を取ったかもしれませんが、イエスが招かれたより崇高なる善を追い求めることができなかったために、神の国から未だ遠く離れたままだったのです(マタ19:16-24)。ミサの時、回心の祈りConfiteorのこの部分は、金持ちの若者が持っていた物のように、私たちの心を虜にして、キリストの呼びかけに応えられないようにしているものが、たとえそれが悪いものではないにしても、私たちの人生の中にあるかどうかを問いかけるよう私たちにあえて求めているのです。

私のいと大いなる過ち?
 私たちの罪の重さを強調する祈りの中で、「私は何度も罪を犯しました」(日本語ではと「たびたび」と訳されてきました)と言います。これは、ダビデが神に向かって言った悔い改めのことばを反映しています。「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました」(代上21:8)。ここで、「私は何度も罪を犯しました」の「何度も、たびたび」は原語では「大いに」とも訳される言葉です。たとえば口語訳聖書は、歴代誌上21章8節を「わたしはこの事を行って大いに罪を犯しました」と訳しています。ラテン語規範版ではこのとき悔い改めのしるしとして、三度、胸を打ちながら次のように繰り返して言います。 mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa. 私の過ちによって、私の過ちによって、私の大いなる過ちによって。

 このように繰り返すことで、自分の罪を深く嘆き悲しむ有様がより完全な形で表現されます。私たちは、何か小さなことで落ち度があったとき、悪いことをしてしまった相手に「ごめんなさい」と言うだけで済むかもしれません。しかしもし、それがもっと容易ならぬことで、私たちが取った行動を深く嘆いて悲しむのであれば、時には何度か(繰り返し)、状況に応じて、「誠に申し訳ありません・・・をして本当に自分は後悔しています・・・どうか私を許して下さい」と私たちは謝罪します。ミサ聖祭のこの件から、私たちには、神に逆らって罪を犯すことが軽く扱われてもよい問題ではないのだとはっきり認識します。私たちはどんな悪事を働いたにしても、あるいは善行をなすべきだったのにそれができなかった場合でも、それらに対して責任を取らなければなりません。それゆえ私は、ミサのときに、ただ単に神に謝りはしないのです。回心の祈りConfiteorによって、私は心からの痛悔を表明し、胸を打ちながら「私の過ちによって、私の過ちによって、私のいと大いなる過ちによって」と言いながら、罪を犯してしまったことを謙虚に認めるのです。



(i)ラテン語の「回心の祈り」の最初のことばで「私は告白します」という意味。