イエスのカリタス修道女会
 

修道会

会のヴィジョン

創立者たち

写真で見る歴史

修道院分布図

私たちの活動

教会活動

社会福祉

教育

医療

召命

シスターへの道

召命・練成会

スモールクワイア

コンサート出演予定

活動報告

CD紹介

イエスのカリタス友の会

友の会とは

入会しませんか?

援助申請

感謝のお便り

活動報告

イベント

海外宣教

使用済切手

エコキャップ

家庭のきずな

今週の聖書朗読

いのちのことば

リンク

お問い合わせ

ミサについて

 

教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第4回 挨拶@「主はみなさんとともに Dominus vobiscum」
東京教区司祭 田中昇
2020/1/16 更新


 

 聖書的な観点からすると、典礼の挨拶「主はみなさんとともに」は、単なる普通の挨拶などではありません。これは、司祭が「おはようございます」と言い、信者たちが「おはようございます、神父さま」と返すやりとりのようなものとはまったく違います。
 基本的にこのことばは、イエスのみ名によって集う信者の共同体にイエスがともにいて下さる現実を伝えています。というのも、イエス自身が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタ18:20)と仰ったからです。この典礼的挨拶は、私たちが受けた洗礼によって私たちの魂のうちに住まわれる神の命の深遠なる現実をも表現しています。このことばによって、司祭は、私たちが受けた神の命が私たちの中で成長し続けるようにと祈っているのです。
 しかし、「主はみなさんとともに」という挨拶は、聖書に出て来る英雄たち全般に語られたことばをも思い起させます。彼らは、神によって困難な使命に召し出されました。使命とは言っても、それは個々人を自らの「快適な場」の外に引き出し、当人にとっては以前にもまして神に信頼しなければ果たすことができなかった大きな使命のことです。また神の民の将来は、この個々人がいかにその呼びかけに応え、いかに自身の役割を果たしたかに依拠していました。イサク(創26:3, 24)とヤコブ(創28:13-15)、モーセ(出3:12)とヨシュア(ヨシュ1:5, 9)、ダビデ王(サム下7:3)、預言者エレミヤ(エレ1:6-8)、そして恵まれた方処女マリア(ルカ1:28)を思い出して下さい。彼らは皆、生涯の転機にこのメッセージを耳にしました。このように幾度か神がある人物を呼び出すとき、神ご自身かそのみ使いが「主はあなたとともにいる」と請け合いながらその人物に話しかけているのです。
 ヨシュアを例に取り上げてみましょう。モーセが死んだ後、神はヨシュアを呼び出し、イスラエルの民を約束の地に導くという困難な任務をお与えになりました。そこには、彼らが入植することを阻むおびただしい数の大軍がおり、あまたの戦いが待ち受けていたからです。そうであったにもかかわらず、神はヨシュアに雄々しくあるように、また「私があなたとともにいる」のだから、上手くいくことを確信するようにと彼に語りました。
「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュ1:5-6, 9)

 神は、ギデオンにも同じように呼びかけました。士師記は、いかに神がギデオンにみ使いを送り、イスラエルの地を接収してきたミディアン人からその民を救い出すようにと彼に呼びかけているか語っています。み使いは次のようなことばで挨拶しました。「主はあなたとともにおられる」(士6:12)と。ギデオンはそれまで軍隊経験もなく、脆弱な部族の出身で、また彼の一族の中でも最も貧弱な人物であったにもかかわらず、神は、ギデオン自身の力量や技能ではなく、神が彼とともにいるがゆえに、彼がイスラエルを率いてミディアン人を打ち破って勝利することになると約束されました。「わたしがあなたとともにいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」(士6:16)と。
 たぶん、最もよい例は、柴が燃えているところでモーセが召し出された話です。この有名な場面で、主はモーセを非常に困難な使命に呼び出しています。すなわち、主は、モーセを殺そうとしていた国であるエジプト(出2:15参照)に引き返し、ヘブライ人を奴隷にしていた悪意に満ちたファラオと対峙し、民を解放するようにと彼を説得しているのです。
 モーセは、自分に委託された事の重大さに圧倒され、その任務に自信が持てませんでした。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」(出3:11)それからモーセは、神がお与えになった責務から逃れるために、できる限りのことを全てします。つまり、民がこの神は誰なのか自分に尋ねるだろう(出3:13)、その民は自分を信じず主が本当に自分に現れたことを疑うであろう(出4:1)、また自分は指導者であるには弁が立たない(出4:10)とモーセは主に話しています。

 神は、モーセが自分は指導者にしては不適格な人物だと感じていることに対して、どのように反応しているでしょうか。実に神は、モーセが最も必要とするただひとつのことだけを彼に与えています。それは、つまりモーセがこれから挑むべき使命において、神が彼とともにいるという確信(強い信頼)なのです。「わたしは(必ず)あなたとともにいる」と神は言います(出3:12; 4:12)。こうしてモーセは、自身の才能や技量ではなく、神の助けゆえに、自らの任務を果たすことになります。この神の助けのおかげで、モーセは、これまで自力でなし得たこと以上にはるかに多くのことをなし遂げることができるようになります。聖パウロが言うように、神の力はモーセの弱さのうちに完全に現れるのです(2コリ12:9-10を参照)。
 あなたは今までに、人生における様々な要求に対して、もう無理だと感じたことや、打ちのめされたような思いをした経験がありますか?あなたの結婚生活や家庭、仕事においてであれ、あなたがカトリック信仰を生きることにおいてであれ、モーセのように、神があなたに託された使命に対して自分は力量不足であるといつも感じてはいませんか?もしそうであるのなら、典礼の始まりのことば、「主はみなさんとともに」(主はあなた方とともにおられます)は、あなたを鼓舞し、勇気づけてくれるはずです。
 私たちは、聖書的な観点から、「主はみなさんとともに」ということばを聞くと、それぞれが神からいただいている価値ある召し出しを思い出します。神の子供として、私たちはそれぞれが固有の使命を持っていて、御父の計画の中でそれを果たさなければならないのです。私たちはこのことばを聞くとき、ヨシュア、モーセ、ギデオン、そして主から特別な召し出しを受けた他の多くの人たちに倣っているのだということを悟るべきです。私たちは、異教の圧制者から神の民を守るように、あるいはファラオのような邪悪な独裁者に立ち向かうように召されてはいないかもしれませんが、私たちの結婚生活において、家庭において、仕事において、友人関係において、小教区において、そして地域社会において、私たちそれぞれが他の誰も果たせない自身の役割を担っているのです。
 その一方で、これらのことばは、私たちが人生において試練や挑戦に遭うときに私たちを支えることができ、また神がどのような務めを私たちに託しても、私たちがそれに忠実であるよう私たちを助けることができ、そうして私たちが神に近づいて行けることを保証するものでもあるのです。もし、私たちが自分たちの子供たちの親になることにおいて、また自分の信仰を他者と共有することにおいて、あるいは道徳的な生き方のある面において自分に自信が持てなくなったり、あるいは自分は相応しい者ではないなどと感じたりするのであれば、私たちは、典礼に与るときに、私たちを助けるために主が私たちとともにいて下さることを思い起こすべきなのです。もし私たちが、悪戦苦闘する結婚生活や仕事の上での厳しい立場、重篤な病気との戦い、あるいは愛する者の死に直面しているのなら、神はこうした試練の最中で私たちとともにいて下さるのです。もし私たちが悲しみや落胆、あるいは霊的な生活の暗闇を体験しているのであれば、私たちはたとえ主がともにおられることを感じられない時でさえも、ミサに与るとき、主は確かに私たちとともにいて下さることを思い起こすべきなのです。しかし、とりわけ、この挨拶のことばは、畏怖の念をかき立てる現実を暗示しており、その現実の中で、私たちは皆、キリストの死と復活の神秘や彼の御体と御血との交わりにまさに与ろうとしているのです。私たちは決してそのような大いなる光栄に相応しい者ではありませんが、ミサの始まりの司祭のことばを聞くとき、私たちは主がいつもともにいて下さるということを思い起すのです。ちょうどモーセ、ヨシュア、ギデオンそして他の多くの者たちと同じように、私たちは自信をもって主の助けに信頼することができます。私たちは、自分たちの欠けているものは何でも、神の力が補ってくれることを期待すべきなのです。

 


使徒的挨拶
 ミサの始めの挨拶として相応しいとされる他の選択可能な典礼式文は、聖パウロが彼の手紙の中で用いたことばに由来するものです。例えば、司祭がミサの冒頭で次のように言うことがあります。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、みなさんとともに」と。――これは、パウロの諸書間の冒頭の挨拶に由来することばです(ロマ1:7; 1コリ1:3; ガラ1:3; エフェ1:2; フィリ1:2を参照)。これは、特に次の一連の事実を強調しています。すなわち、私たちの信仰は使徒たちから私たちに連綿と受け継がれていますが、そもそもキリストご自身がこの使徒たちにご自身の使命と権威を託され、使徒たちは後にその権威を後継者たちに伝達していったということです。今日の司教たちは使徒たちの直接の後継者であり、彼らが持つ使徒的使命を司祭たちと共有します。典礼において「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、みなさんとともに」という挨拶を耳にするとき、私たちは、聖パウロの時代から今日まで続く教会の歴史を通じて、これらのことばで挨拶を交わしてきた聖人たちと連帯していることに気づくのです。