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教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第11回 信仰宣言
東京教区司祭 田中昇
2020/6/1 更新


 

 信仰宣言で唱えられる信条は、キリスト教信仰の規準ないし規範として初代教会で用いられていた信仰告白の要約です。もともと信条は、洗礼志願者が教会の信仰を告白する洗礼式の式文の一部でしたが、後に正しい教義を保証し異端を抑える手段となりました。

 しかし、信条そのものは聖書に由来しないことから、「なぜこの非聖書的文言が、ことばの典礼に含まれているのか」と不思議に思う人もいるかもしれません。それに答えるために、信条が聖書の話を要約していることに注意すべきです。天地創造からキリストの受肉、死と復活、聖霊の派遣、教会の時代、そして遂にはその再臨に至るまで、信条は救いの歴史の構想全体を貫いて私たちに語っています。私たちは、ひとつの短い信仰告白の中に、創世記から黙示録へと貫かれる説話、つまり創造、堕罪、贖いを抽出しています。しかも私たちは、このドラマの主役である父、子、聖霊という三位なる神のペルソナに鋭敏な目をもってそうするのです。ある神学者は、「聖なる諸書が長く語ることを、信条は簡潔に述べる」と評しています。[ⅰ]

旧約聖書の「信条」
 熱心に祈る心をもって信条を唱える実践は、その確たる根拠を聖書の中に持っています。古代イスラエルは、シェマーという名で知られる信仰宣言の中で自分たちの信仰を告白するように招かれていました。このシェマーとは「聞く」を意味するヘブライ語で、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:4-5)という祈りの冒頭のことばです。神聖なるこれらのことばは、常に民の心にあるべきもので、子供たちに教えられ、また朝起きたとき、夜眠るとき、家にいるとき、通りに出て行くときというように一日を通して定期的に唱えられるべきものでした(申6:6-l0)。

 シェマーは、イスラエル周辺の人々に一般に知られていたこととは違って、まさに一種の異なる世界観を語っていました。いにしえの近東の人々は、多神教的な世界観を持っていました。つまり、彼らは多くの神々が存在することを信じ、各部族あるいは各民族ごとにそれぞれ固有の神々を有し、彼らはその神々を鎮め、憂いのないようにする必要がありました。この見方からすると、宗教とは典型的に部族的であったり、民族的であったり、あるいは国家的であったりしました。

 イスラエルを取り巻くこのように色濃い多神教的な環境の中にあって、「われらの神、主は唯一の主である」ということばは、イスラエルの一神教的信仰を言い表す大胆かつ反体制文化的な表現であったことでしょう。しかしシェマーは、古代ユダヤ人にとって、どれだけの神々が存在するのかという問いに対する単なる抽象的見解ではありませんでした(そもそも彼らにとって神は唯一なのです)。ユダヤ教的一神教には、いうなれば破壊活動家のごとき激しさがありました。なぜならその一神教は、単に唯一の神がいるということのみならず、この唯一の神がイスラエルと特別な契約を結んでいるということも明示していたからです。言い換えると、イスラエルの神は、単に世界の神々の中の一つの神ではなく、あらゆる民族の上に君臨するまことの神だったのです。従って、ユダヤ教的一神教は、例えば、エジプト、カナン、バビロニアの神々の化けの皮を剥ぎ、それらの神々が実は何であるのか、すなわち偽りの神々であって神格を全く有していないことを彼らに示しました。そう、イスラエルの神こそ唯一の神だったのです。

 そこで私たちのシェマーであるミサのときに唱える信条を確かめなければなりません。いにしえのシェマーと同様、今日において、私たちの信条は反体制文化的なメッセージを包含しています。それは、現代の俗世界で普通に教えられていることとは違い、ある種全く異なる人生観を語っています。私たちの時代は相対主義的な時代と言われますが、その相対主義とは、確固とした道徳的真理も宗教的真理も無ければ、絶対的な正しさも間違いもないという見方なのです。相対主義的世界観は、人がどんな神を信じようとも、人がどういう人生の選択をして生きようとも全く構わないと主張します。つまり人生には真の意味などないのだから、各人が自由に自分の道徳的・宗教的価値観を作り上げて、好き勝手に生きるべきなのだというわけです。

壮大な戦い
 この「何でもあり」という文化的環境にあって、信条は、私たちを現実の上に立たせ、私たちの信仰と人生における選択とが関係し合っていることを私たちに思い起こさせます。信条は、天地創造から今日教会が担う聖化する使命の源であるキリストの贖いのみ業へと進展していく話を語りながら、大胆にも人類史全体に対して話の枠組みを構成しているのです。言い換えれば、信条は、人生には筋書きがあり、私たちが今現在存在するのには当然の理由があると考えているのです。信条は、天地万物が単なる偶然として今あるのでなく、唯一のまことの神である「天地を造られた方」によって在らしめられたのであり、神のご計画に従ってある方向へと動いていることをはっきりと示しています。また信条によれば、この神のご計画は、私たちに幸福と永遠の命への道を示すために「人となられた」神の子である「唯一の主イエス・キリスト」において完全に啓示されたことになります。

 信条はまた、いかにしてイエスが「私たち人類とその救いのために」、また「罪の赦し」をもたらすために来られたのかに特に触れています。私たちは神によって救われ、神から罪をゆるしてもらう必要があると認めること自体、キリストの到来以前の私たちの状況が何かひどく険悪なものであったことを物語っています。それは、サタンとその手先が神に逆らったその起源と、いかに彼らが楽園にいたアダムとエヴァと残りの人類を堕落させて神に逆らう者たちの仲間にしたかということを指し示しています。このように、信条の物語は、世の初めから怒涛のごとく湧き起こる激烈な戦いを暗黙のうちに伝えています。それは、善と悪、神と蛇(創3:15; 黙12:1-9)、聖アウグスティヌスが「神の国」と「人間の国」と呼んだもの、そして教皇ヨハネ・パウロ2世が「愛の文明」と「死の文化」と呼んだものの間にある戦いです。

 このように信条を通して、私たちは、自分たちの短い人生がこの壮大な物語に巻き込まれていることに気付きます。そして、私たちにはそれぞれ、このドラマにおいて演じるべき重要な役割があります。問題は、「私がどれだけ上手く自分の役割を演じられているだろうか」ということです。信条は、選択に正否の別はないと言い、私たちが何を信じようと、どう生きようと問題ではないという現代の相対主義的神話に私たちを固執させはしません。信条は、私たちの人生の終わりに、「生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られる」主イエス・キリストのみ前に立たなければならないことを思い起こさせます。その時、私たちの人生のあらゆる選択は、神が裁きをおこなうそのみ前で秤にかけられ、私たちがいかに生きたかに従って、正当な報いまたは罰が与えられることになるのです。

 ですから信条は、この壮大な苦闘において、私たちをいい加減な傍観者のまま放ってはおきません。信条は、私たちがこの戦いのどちら側に付いて戦うことにするのか選び取るようにあえて要求します。私たちは、確かな正も否もないと考えさせようとするこの世の君主に従うことにするのでしょうか。あるいは、終わることのないみ国の幸福へと私たちを導かれる天地の王に従うことにするのでしょうか。私たちは、ミサの信条において信仰を告白するとき、公に全会衆と全能の神のみ前に立って、イエスとともに信条旗を立てるのです。私たちは、世俗のように生きるのではなく、「私は唯一の神を信じます・・・」と、一心に主に忠誠を誓うように励みますと荘厳に宣言するのです。

信じることの二つの側面
 しかし、なぜ私たちは毎週毎週この同じ信仰告白を繰り返す必要があるのでしょうか。なぜ日曜日ごとに教会に戻って来ては、「はい、私は今まで通りこれを全て信じます」と言う必要があるのでしょうか。信条の最初にあって、信仰の様々な表明を結びつけるキーワードが、ミサの中で毎週信条を復唱することについての意味を浮き彫りにしてくれます。そのキーワードとは「私は信じる」Credoです。

 『カテキズム』によると、信じることには二つの側面があります。まず信じることは知的な何ごとかです。それは「神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意」(150項)です。これは、信条において最も明白な側面です。私たちは、「神は唯一」であり、イエスは「神の独り子」であって、亡くなってから三日目に復活したことを「私は信じます」と断言するのです。また私たちは「聖霊」と「唯一の、聖なる、普遍の、使徒継承の教会」を信じ、私たちの知性は教会が公式に教える全ての事柄において、それらに同意するのです。  その一方で、信仰にとってもっと根本的なのは、それが「神への人格的な帰依」であるということです。信じることを表すヘブライ語'amanは、「アーメン」という語の語源なのですが、まさにこの一語がそのことを表現しています。この語は、人が何か別の何ものかに拠って立つことを意味していると理解され得ます。[ⅱ] 言い換えれば、旧約聖書の観点からすると、神を信じることは、単に、神が存在するという知的信念を表すわけではないのです。それは、自らの人生を一人格として神に委ねることをも意味します。それは、いかに神がまことに自分の人生の礎(いしずえ)であるかを表現しているのです。

数学の方程式と結婚
 この信仰の「知的」ならびに「人格的」な二つの側面の違いは、数学の方程式と結婚の違いのようなものです。ある人が「2+2=4だと信じる」と言うなら、その人は、この声明は真実だと思うと言っているわけです。しかしながら、夫が自分の妻に「ねえ君、僕は君を信じているよ」と言うとき、彼は単に彼女が存在することを信じていると主張しているだけではありません。彼は、「僕は君を信じているよ・・・僕は君に信頼しているから・・・僕の人生を君にささげるよ」と言っているのです。

 同様に、私たちが信条の中で「唯一の神を信じます・・・」と言うとき、全く人格的な何事かを私たちは表現しているのです。単に神が存在すると断言する以上に ―― もちろん、そうもするのですが ―― 私たちは自分の全生涯を全く自分たちとは異なる唯一の方に委ねるとも言っているのです。このようなわけで、私たちは日曜日ごとにミサで信条を復唱するのです。ちょうど夫婦がお互いの信頼と献身を誓い合い、普段からお互いに「あなたを愛している」と語り合うように、主に身を捧げ、全生涯を委ねること、すなわちまさに主を「信じる」ということを何度も何度も愛情を込めて語りかけながら、私たちは信条において主への献身を毎週更新するのです。

 このような心から信じるということの聖書的な意味を思う時、信条とは、単に紙上でチェックされる必要がある教義目録ではないことがはっきりとわかります。信条の「私は信じます」は、毎週、ますます私たちの生活を、人生を神に任せるようにと私たちを招いているのです。そのことは、「私の生活の中心に実際のところ誰がいるのか?私は実際のところ誰に信頼をおいているか?」と問いかけるよう私たちに要求しています。信条の諸表現と直面するとき、私たちは、「私は本当に一生懸命に神の御旨を追い求めているのか?それとも、自分自身の願望、夢、計画を優先して自分の思いを第一に追い求めているのではないか?」と自問することができます。「私は本当に自分の生活を主に任せているだろうか?それとも、私の生活には、イエスの道にそぐわない領域があるのではないか?」「私は御摂理であるイエスの加護に自分の心配事を委ねているのか?それとも、私は自分で自らの人生をコントロールすることを放棄して神にもっと信頼することを恐れているのではないか?」私たちの中に完全な信仰を持つ人は一人もいませんが、私たちが信条を唱えるとき、私たちは、神への信仰を育みたいという願望、つまり私たちの人生をよりいっそう神に委ねたいという願望を表現しているのです。私たちが神以外の何事かあるいは何者か ―― 私たちの能力や計画や財産、経歴、政治家、友人 ―― に全幅の信頼を寄せることは、愚かなことであり、落胆に終わることであるのかもしれません。私たちが全幅の信頼を寄せるに値するのはただ神のみです。『カテキズム』はこの点を次のように指摘しています。「キリスト者の信仰は神への人格的な帰依と神が啓示された真理への同意ですから、だれか一人の人間を信じることとは違います。全面的に神に信頼し、神が語られることを固く信じるのは、正しく、よいことなのです。神でないものをこのように信じることは空しく、誤っています。」(150項)

共同祈願
 ことばの典礼は、「信者の祈り」(oraio fidelium)として知られる共同祈願において最高点に達します。これはミサの中でも最も古い構成部分の一つで、紀元155年にはすでに殉教者聖ユスティノスがそのことを証言しています。聖ユスティノスは、キリスト教徒がミサで何をするのかを説明し、祈りや儀式の概要を記しながら、ローマ皇帝に宛てて手紙を書きました。この書簡において、彼は聖書朗読と説教の後に捧げられる執り成しの祈りを次のように記述しています。「それから私たち一同は起立し、永遠の救いを得るために正しく生き、行動し、また掟に忠実であるように、自らのため・・・また至るところの、他の全ての人のために祈ります。」[ⅲ]

 当然のことながら、これは今日のミサにある「共同祈願」と実によく似ています。つまり「共同祈願」は、少なくとも2世紀の殉教者聖ユスティノスの時代にまで遡る伝統に基づく執り成しの祈りなのです。

 しかし、執り成しの祈りの実践は、キリスト教の歴史の中でさらに遡ります。ペトロがヘロデによって投獄されたとき、エルサレムの教会は「彼のために熱心な祈り」をささげ、その夜、み使いがやって来て鎖をはずし、彼を解放しました(使12:1-7)。聖パウロは、弟子であるテモテに勧めを与えて、全ての人のために執り成しをするよう次のように言いました。「願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のためにささげなさい。王たちや全ての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、全ての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモ2:1-4)と。パウロ自身、自分が関係した諸共同体の必要のために絶えず祈り(1テサ1:2-3)、また彼らにお願いして自分の職務のために祈ってもらいました(2コリ1:11)。新約聖書において、執り成しの祈りがこのように強く求められていることを考えれば、共同祈願が正式にキリスト教の早初期からミサの中にその場を得たのも相応しいことです。

祭司的な執り成し
 こうしたミサにおける共同祈願は、信者にとって意義深い時を表しています。『ローマ・ミサ典礼書の総則』は、信者がこの共同祈願において「祭司職の務めを実行している」ことを指摘しています。[ⅳ]神の民、すなわち叙階された司祭、修道者、そして信者たちの全てに、祭司的役割が与えられているということが聖書の中で証言されています。キリストが私たちを「祭司の王国」として下さった(黙1:5-6を参照)がゆえに、私たちは「選ばれた民、王の系統を引く祭司」(1ペト2:9)なのです。祭司職がミサのときに実践される一つの方法は共同祈願の内にあって、それによって私たちは全人類を代表してキリストの祭司的祈りに参与しているのです。イエスは喜んで全世界のために執り成しながら、胸中の思いを打ち明けました(ヨハ17章)。イエスは、「人々のために執り成しておられるので、彼を通して神に近づく人々を」救うことができるのです(ヘブ7:25)。私たちは、典礼のこの機会に、独特な方法でキリストの執り成しに参与するのです。

 『カテキズム』は、執り成しの祈りが「神のあわれみに結ばれた心の持ち主の特徴的な行為」[ⅴ] であると述べています。私たちが本当に神の思いと合致しているなら、他者のために自然と祈りたくなるはずです。ことばの典礼の頂点は、こうした共同祈願をささげるには絶好の時なのです。ミサのこの段階に至るまで、信者は、聖書において示され、説教で詳しく説かれ、信条において要約された主のことばを耳にしてきました。そして、神のみことばによって涵養されてきた信者は、イエスの心と思いと一つになって、教会と世界の必要のために祈りながら神の呼びかけに応えるのです。祈りは普遍的な視野で、たとえば権力者のため、様々な必要や苦しみを抱えている人々のため、そして万人の救いのために[ⅵ]行われなければなりませんから、共同祈願を通して、私たちは自分自身のことだけではなく、「他人のことにも」(フィリ2:4)注意を払うように訓練されるのです。





(i)Nicholas Lash, Believing Three Ways in One God: A Reading of the Apostle’s Creed (London, England: SCM Press, 1992), 8.この評釈は、Gerard Loughlin, Telling God’s Story: Bible, Church and Narrative Theology (New York: Cambridge University Press, 1996), p. 50に引用されています。[back→]
(ii)ヨゼフ・ラッツィンガー『キリスト教入門』(小林珍雄訳、1973年、エンデルレ書店)23, 25-27ページ参照[back→]
(iii)殉教者ユスティノス『弁証論』(Apologia) 1, 67、CCE 1345の引用を参照。柴田有訳『ユスティノス』―『第1弁明』67項(教文館 1992年、86ページ参照)。[back→]
(iv)『ローマ・ミサ典礼書の総則』 69番。[back→]
(v)CCE 2635.[back→]
(vi)『ローマ・ミサ典礼書の総則』 は、共同祈願の意向は、まず教会の必要のため、次に国政にたずさわる人々と全世界の救いのため、困難に悩む人々のため、現地の共同体のため、という順番を示しています(70番)。[back→]