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ミサについて

 

教会生活の頂点・源泉であり、"喜びの宴"、"聖なるいけにえ"であるミサ。その部分ごとの言葉としるしの意味を東京教区司祭田中昇神父が解説します。
どうぞご一緒に深めて行きましょう。



第2回 開祭 キリストと教会の業である典礼
東京教区司祭 田中昇
2019/11/15 更新


 

神の民の集い
 ミサ式次第の冒頭は「人々が集まると、司祭が奉仕者と共に入堂する。その間、入祭の歌が歌われる・・・」というルブリカ(ト書き)で始められています。これは端的にミサを始めるためには、まず信じる者が一つに集うことが必要だと言うことを意味しています。まさに主イエスが、「二人または三人がわたしの名において集まるところに私も共にいる」(マタ18・20)と言われた通りです。信者は皆、喜びや苦悩を味わっているこの世の生活から主キリストと出会う体験に向かって家を出、教会に集うのです。「感謝に満ちて御前に進み楽の音に合わせて神を讃える」(詩95・2)ために。そもそもミサを含む教会の「典礼 Liturgia」という言葉は、「民の働き」を意味するギリシア語に由来します。すなわち典礼とは「神の民」である全教会の行為なのです。つまるところそれこそがキリストの御業・祭司職の実現なのです。ここで注意が必要なのは全教会という言葉は、地上の今現実に存在する個々の教会共同体の集合という意味を越えた概念、つまり歴史的・空間的な感覚を越えた天上・地上全ての信じる者の集い、聖徒の交わりとしての聖なる・普遍の・唯一の使徒的な教会として捉えるべきだということです。教会法第369条が言う通り、「自らの牧者によって福音とミサをとおして聖霊において集められた部分教会に、唯一の聖なる普遍の使徒的なキリストの教会が真に現存しかつ活動する」のです。

 


天上の礼拝と共に
 この神の民の集いである典礼において、盛式な儀式では、十字架と香炉を奉持した侍者に続いて7本の蝋燭を携える7人の白衣をつけた侍者を先頭(同時に祭壇上に7つの蝋燭を置いて)に聖書奉持者、司祭団、そして主司式司祭が入堂します。この所作には聖書的な起源があります。
 ヨハネの黙示録によれば、天上の礼拝において神の玉座の前に集う聖徒は皆、命をかけて信仰を守り抜いたがゆえに神の子羊の血で洗われた白い衣を身につけており(黙示録7・9−17)、さらに7つの金の燭台の真ん中を進む神の子羊・キリストも描写されているのです(黙示録1・12、2・1)。この7つの燭台はエルサレム神殿の至聖所に置かれていたメノラーと呼ばれる燭台と関連しており、その灯火は聖霊の賜物、信仰の光、神の恩恵を表わしているようです(同3・1他)。さらに黙示録は天上の礼拝においても、モーセの会見の幕屋、そしてエルサレムの神殿と同様に、24人の長老達(24人とはエルサレム神殿で奉仕した祭司の数)が香を携えている様子、そして天使達がその煙を聖徒の祈りと共に御前に捧げている様子を伝えています(同5・8、8・3−5)。同時に香の煙や聖所を覆う雲は、イスラエルの人々にとっては神の臨在の象徴でもあったのです。
 こうしてみると、私たちのミサにおける所作は、聖書が啓示するこうした天上の礼拝のビジョンを表現したものであることに気が付きます。実際、黙示録の中で主の祭壇の前に集う無数の人々が身に着けている白い衣こそ、私たち全てのキリスト信者が典礼で身に着ける共通の祭服(アルバ)なのです。実は洗礼式の時に私たちが身に着ける白い衣がこれです。白い衣は信仰者がキリストに似た者とされたことを意味します(「キリストを身にまとう」というロマ13・14を参照)。別の言い方をすれば、私たちが身に着ける白い衣は、私達がタボル山でペトロたちに示された栄光に輝くあのキリストの聖性に私たちが与る者とされたことを意味しています。司祭はこのアルバの上に祭司の象徴であり、また十字架に揚げられたキリストを象徴するストラ、そして永遠の命と真理の輝き、神の栄光を表わすカズラをつけて、十字架のキリスト像と共に黙示録のビジョンと同様に7つの蝋燭の火の間を祭壇へ進むのです。こうして神の民は屠られ復活したキリストを迎えてミサを始めるのです。ミサは天上の天使、聖人が歌う声に呼応する形で歌われる入祭の歌に表わされている通り、真に喜ばしい時、神と人、人と人とが一致するまさに祝いの宴なのです。だから「感謝に満ちて門をくぐり、賛美を歌って中庭に入る。神に感謝を捧げて、その名を讃えよう」(詩100)ではありませんか。そして入祭をはじめ、ミサの中で香を焚くことは、聖書的なビジョンに基づいて、私たちの祈りや捧げ物を神の御前に丁重に差し出すことを意味すると同時に、共に祈る私たちの集いの只中に神が臨在することを表わすものでもあるのです。


キリストと教会の業・全てのものの聖化である典礼
 教会の典礼の真の主人公は言うまでもなく主キリストです。司祭はあくまでも秘跡的な仕方でその象りとして存在するのであって真の典礼の主ではないのです。それゆえ小教区の典礼において聖職者だけが支配的であるといったような有様は決して望ましいものとは言えません。教会とは、単に聖職者が教え導き、信徒はただ受け身な姿勢で聞いて入ればよいなどという中世の封建時代のような支配・被支配の組織ではないのです。第二バチカン公会議が明示したように、神の民である教会においては、全ての信者が各人各様に自らの聖性という輝きを身にまといながら集い、キリストの体の建設の為に、互いに祈りの心で積極的に奉仕し合うことこそが肝心なのです。司祭、信徒、修道者、皆それぞれが為すべき役割を果たして仕え合うことで、まさに神の民全体の働き、つまり典礼(liturgia)と呼べるものを形作るのです。信仰のうちに聖霊と共にあってキリストの救いの御業を実現する教会の行為、それが典礼なのです。この意味において典礼は、個々の秘跡を挙行する儀式(ritus)とは言葉の上で区別される概念であることが分かります。そして教会の祭儀は、全て信じる者が、神の臨在のもとに神とその教会の名において祝うものであることから、プライベートなものではなく常に共同体的なものであるのです。それはまさに神と信じる者とが皆一つになるものだからです。これが新約聖書で信じる人々が「神に選ばれた聖なる民、神に仕える祭司」(1ペト2・5、2・9、黙1・5)等と呼ばれている意味です。ミサ聖祭は、単に個々の信者が聖体を頂いて信者の義務を果たすだけで済まされるものではなく、やがて完全に達成される神秘、すなわち人々が身も心も主と一致すること、そして同じ聖体を分かち合った兄弟姉妹が一つになるという教会の聖化、ひいてはこの世の聖化を目指すものなのです。



次回(第3回)は、分量の関係で今回解説できなかった十字架のしるしについてです。