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教えて!シスター
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2015/8/24 |
シスターの祈りの生活

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シスターの仕事は祈り
修道者、シスターというと、祈るのが仕事と考える人が多いと思います。一般の方々が自分の家庭、仕事のために自分を捧げるのと同じように、わたしたちも神様(実際は修道会の管区長から)に与えられたミッションのために時間とエネルギーを使いますが、その内容の如何にかかわらず、それは即祈りと言えます。確かにその意味で修道院は祈るところであり、それがわたしたちの仕事でもあります。
教会の心?
「教会の心」になりたいと言った聖人がいました。教会つまり神様の住むところで、その中心である心(言い換えれば魂?)になりたいと言ったわけです。教会は神様の家であり、その家を見る人は神様がどんな方であるかを知ります。そういう意味で、教会は「神の愛のしるし」と言えるのですが、その中で心になるとはどういうことでしょうか?心、心臓とも言えるその核心的な部分、それは愛そのものではないでしょうか?教会を教会たらしめているものは神様の愛なのですから。
その聖人は教会の中で「神様の愛」の中の「愛」になりたいと望んで自分の命を捧げました。その生涯はまさに祈りの生涯だと言えるでしょう。
わたしたちも同じように、身の程もわきまえず、神様の心の中心に自分を置いて欲しいと切に願い、生涯を神様と人のために捧げると約束した者たちです。
祈りの生活
ところで、具体的にわたしたちがどんな祈りをしているかを少しお話しましょう。共同体全体として共に祈る時間的は、一日にトータル3時間程で、朝は朝の祈りと黙想、ミサ、そしてロザリオの祈り、お昼にはわたしたちの修道会固有の祈り、午後に聖体礼と晩の祈りと霊的な読書などがあります。
これは会憲に定められたいわゆるノルマとしての祈りですが、個人的に聖堂で祈る時間は各自様々でしょう。特に外出前後に聖堂に立ち寄って聖体を訪問する習慣などは本会の修道院でよく目にする光景です。というように、祈りの時間というよりは、その日一日がミサの奉献にあわせた「私なりの奉献」になるように、一日にわたって祈りの中に身を置くのです。それが教会の心となりたいと誓ったわたしたちの祈りの生活なのです。朝のミサが一日のすべての業を先導し、霊的に深め、どんなに高く、遠くまで飛んでも疲れない鳥のように、その祈りが神様の愛の大気の中でますますわたしたちに力を与えてくれる、そんなダイナミックな祈りの生活です。
ダイナミックな生活?
と書いたものの、なぜそれがダイナミックといえるのでしょうか?ミサに続く祈りの生活の関係を指します。信徒の方であれば、ミサの意味はよくご存知でしょう。ミサはこの世を、そしてわたしたち一人ひとりを最期まで徹底的に愛してくださる神様が、ご自分を余すところなく奉献してわたしたちが完全に神様のものとなるようにしてくださった秘跡です。つまりわたしたちを100パーセント愛してくださる神様の行為なのです。私が何かに寄るのではなく、何の理由もなく神様の100パーセント愛していただいていることを示す秘跡なのです。条件なしの愛です。だからこそ、こんなわたしたちでも神様の愛に頼って生きられるのです。ミサにおけるその愛の神秘を一日の祈りはさらに深め、落ち込んでいるときには初心(つまり神様がそんなあなたでも愛してくださっていること)に帰らせてくれる時間なのです。私にとって祈りとはまさに、神の愛を確認する時間です。
祈りの生活の結実・わたしたちの誇り
神様に愛されていることを確認する時間が祈りであるならば、その実りは何でしょうか?愛とは即「温かくかかわること」であり、神様が私を愛して下さるとは、私にもその愛が生じることであり、私がこの世での人とのかかわりの中で神様の愛のメッセンジャーになることです。つまりわたしたちの祈りの生活はそんな愛の広がり、浸透、展開をこの世にもたらすためなのです。私たちは弱く
何のとりえもない存在であったとしても、神様の心の中心である愛を全世界にもたらす使命をいただいていることを誇りに思っています。
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